清水谷公考
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
清水谷 公考(しみずだに きんなる、弘化2年(1845年)-明治15年(1882年)12月31日)は、幕末の公家。公卿・清水谷公正の子。箱館府知事。
幼い頃に出家して比叡山に入るが、清水谷家を継ぐことになったため還俗。安政5年(1858年)に従五位下を授受。文久2年(1862年)に侍従を申し付けられた。
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、蝦夷地鎮撫を朝廷へ進言した。よって新政府より箱館裁判所総督に任命されて閏4月26日、旧幕府管轄箱館奉行より箱館において業務引き継ぎを行った。一行は少数だったが引き継ぎは至ってスムーズで、清水谷は旧幕府役人の希望者を下僚に用いた。箱館裁判所が箱館府に名を変えると共に箱館府知事に就任した。戦火はまだ及んでいなかったものの、蝦夷地警備の兵力は新政府に従わない東北諸藩にゆだねられ、孤立状態の蝦夷地には物資欠乏のおそれがあり、前途は困難であった。
そして同年10月20日、榎本武揚率いる旧幕府軍が蝦夷地へ到着した。清水谷は兵力を峠下へ派遣し、やがて戦端が開かれ、箱館戦争が勃発した。箱館府の急造部隊は歴戦の旧幕府軍に敵すべくもなく、清水谷は側近達を連れて異国船に乗船して撤退し、青森へ落ちた。11月27日に青森軍総督に任命されたが、実際の軍事指揮は参謀の黒田清隆がとった。明治2年(1869年)4月28日、蝦夷地江差に布陣。旧幕府軍が5月18日に降伏すると、翌19日に箱館へ戻って政務に復帰し、戦後処理にあたった。
同年7月には開拓使次官に就任し、ひきつづき蝦夷地の統治にあたった。9月に東久世通禧長官が赴任してくると次官を辞め、箱館戦争恩賞として250石を賜った。
後、学問に従事し、明治4年(1871年)からロシアへ留学。明治8年(1875年)に帰国した。明治15年死去。従三位授受。享年38。