瀬川晶司
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瀬川 晶司(せがわ しょうじ、1970年(昭和45年)3月23日 - )は、元会社員の日本の将棋棋士。神奈川県横浜市出身。横浜市立日限山(ひぎりやま)中学校、神奈川県立舞岡高等学校、神奈川大学第二法学部卒業。安恵照剛門下。棋士番号は259。
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[編集] 人物
- 年齢的には羽生世代に当たる。
- 奨励会三段リーグに在籍していたが、1996年、年齢制限により退会。
- 退会後はアマチュア選手としてプロの棋戦に参加し、プロとの公式対局で17勝10敗(不戦勝1を含む)の成績を収めた。その中には、銀河戦でA級八段であった久保利明を破った勝利も含まれている。このとき解説をしていた勝又清和は、アマチュアらしからぬ手を連発するので非常に驚いていた。
- 2005年2月、プロ編入の嘆願書を日本将棋連盟に提出した。5月に、全棋士の多数決でフリークラス編入試験実施が認められた。これは、アマチュア時代の好成績が評価された結果であったが、プロ相手に挙げた17勝はすべて持ち時間の短い銀河戦でのものであるため(銀河戦以外の成績は0勝2敗)、持ち時間の長い他の棋戦で現在のプロ棋士と互角に戦えるかどうかは疑問視されていた。しかし、連盟推薦の相手に行われた六番勝負では、第5局までで堂々3勝(2敗)を挙げることができ、フリークラス編入の権利を獲得した。また、同日付で四段の棋士になった。
- その独特の経歴により世間での注目度が高く、プロ入り後は5割以上の勝率を上げている。また、2006年4月14日からNECと日本将棋連盟のプロ棋士では初めてとなる所属契約を結び、ロゴ入りの扇子を使用したり、NECの動画配信に出演したりするなどのPR活動を行っている。
- 2006年10月10~11日に行われた第19期竜王戦の第1局では記録係を務めたが、2日目の昼休憩明けの対局開始に寝入って遅刻し対局が時間どおりに進まなくなるハプニングを引き起こした。この竜王戦にて他の関係者は交代で仮眠を取っていたが、記録係は交代できないため仮眠は休憩時にしか取れなかった。休憩後に竜王の渡辺明が指そうとしたとき、記録係の瀬川がいなかったため指すことを控えた。立会人の深浦康市がストップウォッチを用意していたところで瀬川が入室し対局が再開された。主催紙の読売新聞では、紙面にてこのトラブルを「前代未聞の事態」と報じた。
[編集] 略歴
- 1984年 安恵照剛七段門下で奨励会6級入会
- 1992年 三段リーグ入り
- 1996年 年齢制限により奨励会を退会
- 1999年 アマチュア名人
- 2002年 アマチュア王将
- 2004年 銀河戦本戦でA級の久保利明を破る
- 2005年 朝日アマ名人戦で8強入り。朝日オープン将棋選手権の出場資格を得る
- 2005年 7月18日~11月6日 フリークラス編入試験。
- 2005年11月6日 編入試験に3勝2敗で編入の権利を得て、同日付でプロ棋士四段になる。
- 2005年12月12日 第19期竜王戦ランキング戦6組で、アマ竜王の清水上徹を破り、公式戦初戦を勝利で飾る。
- 2006年4月14日 NECと1年間の所属契約を結んだと発表。日本将棋連盟のプロ棋士では初めての所属契約。ロゴ入りの扇子を使用するなどのPR活動を行う(2007年4月3日、プロ契約の1年更新が発表された)。
[編集] 昇段履歴
[編集] 編入試験の経過
対局日 | 相手 | 勝敗 | |
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第1局 | 2005年7月18日 | 佐藤天彦三段 | ● |
第2局 | 2005年8月14日 | 神吉宏充六段 | ○ |
第3局 | 2005年9月17日 | 久保利明八段 | ● |
第4局 | 2005年10月10日 | 中井広恵女流六段 | ○ |
第5局 | 2005年11月6日 | 高野秀行五段 (中原誠副会長) |
○ |
第6局 | 2005年11月26日 | 長岡裕也四段 (米長邦雄会長) |
- |
- 段位・肩書きは対局時点。3勝、または4敗した時点で終了。
- 第5局は、中原が試験官、高野が助手となり、実際の対局は高野が行った。第6局も同様。
- 当初、第5局の助手は熊坂学となっていたが、連絡の行き違いにより熊坂が辞退し、高野への交代となった。
[編集] 主な成績
(2006年6月22日現在)
[編集] 将棋大賞
- 第33回(2005年度) 東京将棋記者会賞
[編集] 著書
- 「泣き虫しょったんの奇跡」(講談社、2006、ISBN 4062133296)
- 「後手という生き方」角川書店
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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