手賀沼
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手賀沼公園からの眺望 |
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所在地 | 千葉県 | |||
面積 | 6.5 km² | |||
周囲長 | 38.0 km | |||
最大水深 | 3.8 m | |||
平均水深 | 0.9 m | |||
貯水量 | 0.0056 km³ | |||
水面の標高 | 3 m | |||
成因 | 河川による堰止湖 | |||
淡水・汽水 | 淡水 | |||
湖沼型 | 過栄養湖 | |||
透明度 | 0.5 m |
手賀沼(てがぬま)は、千葉県北部、我孫子市、柏市、印西市、白井市にまたがる湖沼。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。
目次 |
[編集] 地理
手賀沼は、もともと「つ」の形をした大きな沼であったが、現在では干拓事業によって約8割の水域が消滅し、北と南に分離された形になっている。この二つの水域は手賀川を介してつながっている。
沼の北から東にかけては我孫子市街地をはさんで利根川が流れ、小貝川の合流点も近い。また、JR常磐線と成田線が北側の沿岸近くを走っている。南には千葉ニュータウンもある。
流域面積は148.85km²、流域内の人口は約48万人。
[編集] 水質
手賀沼の水は1955年(昭和30年)頃までは清澄であったが、周辺の都市化に伴い、手賀沼に注ぐ大堀川、大津川に生活排水や産業排水が流された結果、沼の水質汚濁は全国有数となった。
CODの年平均で見ると1974年から2001年までの27年間連続で全国の湖沼でワースト1に甘んじていたが、各種の水質対策や、北千葉導水路の完成もあって、1990年代までのような猛烈な汚濁レベル(COD年平均20mg/l台)からは改善している。現在ではワースト5以内にも入っておらず、2006年にはトライアスロンが開催された。
しかし、2004年のCOD年平均は8.9mg/lであり[1]、環境省の定める環境基準(手賀沼の場合、5mg/l以下)から見ても依然として高水準であることにはかわりはない。また、北千葉導水路によるとされる改善も、利根川からの導水によって水を押し流しているに過ぎないため、水質汚濁が根本的に解決されたわけではないことに注意する必要がある。
[編集] 利用
手賀沼の水は農業用水として利用されているが、このほかに内水面漁業も行われ、コイやフナなどが漁獲されている(2003年の漁獲量は218t)。
また、県立自然公園(印旛手賀自然公園)にも指定されており、柏・北柏ふるさと公園、手賀沼公園、水の館、手賀沼親水公園、鳥の博物館、手賀沼遊歩道、手賀沼ビオトープ、五本松公園、手賀沼フィッシングセンター、手賀の丘公園、蓮の群生地などの公園施設などがある。
毎年8月には大規模な花火大会が、10月にはマラソン大会が開催され、多いに賑わいを見せている
[編集] 歴史
洪積台地にできた侵食谷が溺れ谷となり、さらに利根川の土砂などによってせき止められてできた沼である。中世末までは香取海(かとりのうみ)の入り江で手下浦(てかのうら)と呼ばれていた。
近世初頭以来、沿岸の地は町人請負新田として開発された。1727年(享保12年)江戸幕府(八代将軍徳川吉宗)は勘定吟味役井沢弥惣兵衛為永の建議で沼全体の干拓を計画し、江戸町人高田茂右衛門友清に工事を着手させたが、その後工事計画を変更、沼を上・下に分け、中央に千間堤(浅間堤)を築き、下部のみを干拓した。これにより、約200町歩の新田が拓かれたが、上部沿岸の村々は排水不良となり、毎年のように洪水の被害を受けた。1738年(元文3年)千間堤は決壊し、新田は水没。その後、老中田沼意次や水野忠邦の時にも干拓の努力は続けられたが、洪水と老中失脚とにより成功しなかった。
当時の手賀沼はカモなどの水鳥やコイ、ウナギなどの魚介類に恵まれ、特に水鳥とウナギは江戸の人々に美味として珍重されていた。水鳥猟は張切網によって行われ、手賀沼鳥猟組合が水鳥の減少によって解散する1942年まで続いた。
大正時代、湖畔には志賀直哉や武者小路実篤らの別荘もあり、手賀沼は文人ゆかりの地であった。
第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)農水省の直轄事業として大規模な干拓事業が着手され、1968年(昭和43年)に完成、約500ヘクタールの水田が造成され、沼の面積は著しく減少している。