白根町
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白根町(しらねまち)は、山梨県西部に存在した町である。
平成の大合併以前の山梨県における町の中で中道町,櫛形町,甲西町,敷島町,上野原町,白州町,河口湖町とともに数少なく「まち」と読む自治体であった。(この7町も合併で消滅したが、河口湖町だけは富士河口湖町となり現在も県内で唯一「まち」を名乗っている。)
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[編集] 地理
山梨県の中央部、甲府盆地の西端に位置。横長の町域で、西半分は山地で御庵沢や塩川が御勅使川と合流して東流する。東半分は御勅使川扇状地が広がる平野部で、市街地となっている。北は御直視川を境に韮崎市と接し、扇状地の北東端を占める八田村とも接する。東は釜無川を境に中巨摩郡竜王町、昭和町に接し、西は芦安村と接する。南は櫛形町、若草町と接している。
[編集] 歴史
東部は氾濫原であったため開発が遅れ、考古遺跡は御勅使川上流に集中しており、縄文時代中期の築山遺跡や飯平遺跡、上諏訪のおつき穴古墳や在家塚の金山塚などが見つかっている。
律令制下においては巨麻郡に属していたと思われるが比定郷はなく、八田村とともに、『続日本紀』承和2年4月条に見られる葛原親王に与えられた「馬相野空閑地」に属していたと考えられている。中世の在地領主も不明であるが、地理的に若草町の加々美荘を領した加々美氏など甲斐源氏の影響下にあったとする指摘もある。また、古典『太平記』に拠れば、観応元年(1350年)、足利将軍家における内紛から発展した観応の擾乱と連動し、鎌倉府では関東管領の高師冬と上杉憲顕が対立し、師冬は武蔵から甲斐へ逃れ白根町大嵐の須沢城で篭城し、城主の「逸見孫六入道」とともに抵抗するが、翌年には敗死している。このことから逸見氏の支配も及んでいたと考えられいる。戦国時代の永正17年(1520年)には、上諏訪付近で甲斐国主武田信虎が反対する逸見氏・大井氏ら国人勢力を撃破した合戦が行われた。次代の晴信(信玄)時代には治水事業が施され、扇状地の開発が進む。また、隣接する八田村には武田家臣金丸氏があり、支配を及ぼした。
[編集] 行政区息の変遷
[編集] 文化財
鎌倉時代の文化財が多く、大嵐の善応寺にある宝篋院塔は1978年(昭和53)年3月30日に県指定の建造物で、百々の諏訪神社の所蔵の木造獅子頭は嘉元3年(1305年)の銘があり、1968年(昭和43年)12月12日県指定の彫刻。飯野の常楽寺法堂の木造阿弥陀如来立像は、1969年(昭和44年)11月20日県指定の彫刻。ほか、今諏訪の久本寺所蔵の鰐口は享徳3年(1454年)の銘があり、1960年(昭和35年)11月7日に県指定の文化財。
百々にある「白根町のカエデ」は御神木であるイロハモミジで、1960年(昭和35年)11月9日に県指定天然記念物。また、善応寺境内にあるビャクシンの大木は江戸時代の建立当時に植栽されたもので、1968年(昭和43年)2月8日に県指定。
[編集] 教育
[編集] 高等学校
[編集] 小学校
- 白根源小学校
- 白根飯野小学校
- 白根東小学校
- 白根百田小学校
[編集] 中学校
- 白根御勅使中学校
- 白根巨摩中学校
[編集] 交通
[編集] 道路
[編集] 高速道路
[編集] 一般県道
[編集] 道の駅
- しらね