督姫
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督姫(とくひめ、1565年12月3日(永禄8年11月11日) - 1615年3月3日(慶長20年2月4日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の次女。母は側室の西郡局。徳川秀忠の異母姉。於普宇、富子、播磨御前、良正院。
三河の生まれ。1582年(天正10年)、本能寺の変により織田信長が死去したため、甲斐や信濃が無主状態となると、家康と北条氏直による甲信をめぐっての領土争いが始まる。しかし、当時の徳川氏と北条氏は戦力がほぼ互角であったため、まともに戦えば手痛い打撃を受けると考えた両者は、和睦することで矛を収めることとした。このときの和睦の条件として、19歳で氏直の正室として嫁いだ。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡する。このとき、氏直は義父の家康の助命嘆願で秀吉から助命されて高野山に流された。後に赦免され大名に復帰した氏直のもとに赴いたが、翌年、氏直は死去してしまったため、家康のもとへ戻った。
1594年(文禄3年)、秀吉の計らい(仲人)で吉田城主・池田輝政に再嫁した。輝政とは仲が良く、忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興、振姫など5男2女に恵まれた。外様ながら男子は松平の姓が許されるなど、池田氏繁栄の元を開いた。夫の死後、姫路城で死去。享年51。
[編集] 毒饅頭事件
池田輝政とは再婚であったが、輝政にも先妻・中川清秀の娘との間に長男・利隆がいた。督姫は実子である忠継を世継ぎにすべく継子・利隆に毒を仕込んだ饅頭を馳走し毒殺しようとした。しかし、女中の中でこれを密告した者がいて利隆は事情を全て知っていた。かといって饅頭を食べなければ義母をないがしろにしたことになるため利隆は苦慮した。ところがそこに事情を知らない忠継がやってきてその饅頭を食べてしまい、忠継は死亡。督姫も毒をあおって後追い自殺したという巷説がある。
史実は今のところ闇の中であるが、忠継が早世し、督姫も同年に亡くなったのは本当の話である(但し、実際には亡くなったのは督姫の方が19日早い)。また、忠継の系統である鳥取池田家と利隆の系統である岡山池田家は不仲であったためにこういう話が生まれたと思われる。但し、利隆と忠継自体は仲の良い兄弟だったらしい。