石井氏
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石井氏は、戦国時代・安土桃山時代の肥前国の武士で龍造寺氏の重臣。江戸期の佐賀鍋島藩の外戚・重臣。
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[編集] 出自
石井氏の出自は、佐賀県立図書館に収蔵されている『石井系譜』が公式の記録となっている。本系譜は、弘化4年(1847)に当時の佐賀藩当局によって編纂され、長く鍋島家の文庫に於いて保管され、後世、鍋島家より佐賀県立図書館に寄託されたものである。
本系譜によると、石井氏の由来は、建長2年(1250)、式部大輔下総権守藤原忠衡(同名の奥州藤原氏当主・藤原忠衡とは別人)が下総国猿島郡石井郷に下向し、その子下総守忠光のときに名字としたことによる。その後、下総守護千葉氏と縁故関係を生じ、15世紀前半に千葉氏を頼り肥前国来住。その後、千葉氏の衰退に伴い、龍造寺氏に従い、その発展に貢献する。戦国時代に嫡男家から五男家に至る五系統に分かれてそれぞれ多数の分家を生み、同族武士団を形成。「石井党」または「石井一門」などと称された。
[編集] 鍋島氏の外戚となり繁栄
近世、龍造寺氏の跡を受けて佐賀藩を立藩をした鍋島直茂は、石井兵部少輔常延の女陽泰院を正室に迎えていたため、石井氏は鍋島氏の外戚として、藩中で重きをなした。さらに、鍋島直茂の長女伊勢龍姫(生母は前室高木氏)は、石井安芸守信忠の嫡男鍋島主水佑茂里(陽泰院の大甥)に嫁いでいる。茂里は、佐賀藩家老をつとめ、7、500石を領した。また、茂里の実弟鍋島安芸守茂賢は、肥前国彼杵郡俵石城主深堀氏を相続し、佐賀藩家老となった。茂賢の子孫は6,000石を領した。その他、一族は着座・独礼等の家格をもって重んじられた他、支藩の家老に就任した系統もある。
[編集] 石井氏出身の著名な人物
- 石井忠房(兼清)・・・石井忠清の五男で、龍造寺家兼・隆信に仕えた戦国武将。龍造寺隆信の擁立に貢献し、隆信を自邸に招いて還俗・元服の儀式を執り行う。
- 陽泰院(彦鶴)・・・石井常延の次女で、佐賀藩祖鍋島直茂の正室。初代藩主鍋島勝茂の生母。
- 鍋島茂里・・・石井信忠の長男で、陽泰院の大甥。鍋島直茂の婿養子。佐賀藩の執政をつとめ、7,500石を領する。
- 鍋島茂賢・・・石井信忠の二男で、陽泰院の大甥。深堀氏を相続し、佐賀藩家老として深堀邑6,000石を領する。
- 石井鶴山・・・石井忠房の後裔で、多久出身。佐賀藩八代藩主鍋島治茂の相談役に抜擢され、治茂の藩政改革を補佐。主に人材育成面で主導的役割をなし、藩校弘道館の開設に尽力。みずから弘道館の初代教頭をつとめる。
- 石井龍右衛門(松堂)・・・国学者。石井三男家の出身。藩校弘道館の教授を経て、私塾純粋社を開設。江藤新平をはじめ、大隈重信、副島種臣、大木喬任らに多大な影響を与える。
- 石井貞興・・・明治維新前後の佐賀藩少参事。維新後、佐賀県庁幹部の傍ら、征韓党幹部として江藤新平を擁立し佐賀の乱を起こす。西南戦争後に逮捕され、長崎にて刑死。
- 石井忠躬・・・蓮池藩主鍋島直与の四男。蓮池藩執政として幕末の難局に対処。
- 石井忠亮・・・戊辰戦争で活躍。逓信省電信局長。後に元老院議官、和歌山県知事を歴任。国営電話事業の開始を主導。「日本の電話創業の父」と称される。
- 石井忠恭・・・司法官。大審院判事、同評定官。京都裁判所長、広島控訴院検事長を歴任。
- 石井常英・・・司法官。横浜裁判所長、台湾総督府覆審法院長官を歴任。
- 石井義太郎・・・海軍少将。
- 石井次郎・・・佐賀県議会第17代議長。衆議院議員。
- 石井虎雄・・・陸軍少将。
- 石井良一・・・帝国鉄道庁参事。大阪市電気鉄道部長。福岡県若松市長。蓬莱銀行頭取。留萌鉄道株式会社専務取締役。
- 石井亮一・・・日本の知的障害者福祉の創始者。滝乃川学園創立者、初代学園長。
- 石井筆子・・・石井亮一の妻。男爵・渡辺清の長女。華族女学校教諭。滝乃川学園第2代学園長。
- 石井淑普・・・陸軍少尉(学徒士官)。終戦後、インドネシア独立義勇軍に合流し、インドネシア独立戦争に参加。インドネシア独立の英雄として、同国政府よりケリラ勲章を受章。
- 石井照久・・・法律学者。東京大学法学部教授。成蹊大学長。