私塾立命館
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私塾立命館(しじゅくりつめいかん)は、西園寺公望が1869(明治2)年に京都御所内の私邸に開設した家塾。賓師・参加者として江馬天江、谷口藹山、広瀬青邨、松本士龍、富岡鉄斎、神山鳳陽、山中静逸、板倉槐堂、山本秀夫、浜崎廉太郎らを招いた。
西園寺自身が、「大いに勤王家を養成するという抱負」で塾を設立したと述べている通り、私塾立命館は他の公家家塾とは異なり、初めから一般的な教育機関としての性格を備えていた。そのため、開設当初は平穏な詩会の場に過ぎなかったが、塾の噂が各地に広がるにつれ、多くの若者が集まって内外の時事問題を議論する場へと変化、ついには校舎を増築する程までに成長している。1870(明治3)年4月23日、塾のあり方に不穏を感じた京都府庁(太政官留守官)が差留命令を下し、私塾立命館はわずか1年弱で閉鎖されている(開設は1869年9月23日前後とされる)。
後に私塾の閉鎖について感想を求められた西園寺公は、「立命館の諸生が高談放論するのを、革命思想とでも勘ちがいして、ぬきうちに止めよと云ってきたらしく、塾はよほど盛んになっていて惜しかったけれど、廃校にした」と述べている。
1905(明治38)年、京都法政学校(現在の立命館大学の前身)が「立命館」の名称を継承することを願い出たとき、西園寺公望は次のような内容の扁額をしたためて寄贈し、これを許した:立命館 - 往年、余は一校を興し名づけて立命館という。泰西に遊学するに及んで、校廃し名存す。この頃京都法政学校学員来り、その名を襲用することを請う。余は名の実を得ることを喜び、すなわち扁額を書してもってこれを与う。孟子いわく、殀寿貳わず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なりと。蓋し学問の要はここに在り。 明治三十八年四月 侯爵 西園寺公望
[編集] 「立命館」の由来
「立命」は中国の孟子の一節『殀壽不貳 修身以俟之 所以立命也』から採られた。これは、「人間の寿命は、天命によって決められている。修養に努めてその天命を待つのが人間の本文の全うである」という意味である。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『立命館百年史』第一巻通史 立命館百年史編纂委員会