秦真司
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秦 真司(はた しんじ、1962年7月29日 - )は、昭和末期から平成期(1980年代後半~1990年代)のプロ野球選手。現役時代のポジションは捕手・外野手。右投げ左打ち。徳島県鳴門市出身。流れるような美しいスイングが印象的で、野村克也監督(当時)をして「左打者のスイングのお手本」と言わしめた。また、そのスイングが実に打撃理論の理にかなった模範的なものであったことから、野村は「秦のバッティングは少年野球のお手本」とも評していた。2007年から東北放送・NHK(MLB)解説者。
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[編集] 来歴・人物
鳴門高校3年生の春夏、甲子園出場。バッテリーを組んでいた島田茂と共に鳴門高校から法政大学へ進学。1984年、ロサンゼルスオリンピック野球日本代表に出場し、公開競技ながら金メダルを獲得。1985年ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。関根潤三監督のもと、八重樫幸雄の後継として正捕手をつとめる。1990年、野村監督に思いつきや単調的なリードを指摘され古田敦也にその座を奪われるも、打力と俊足を生かして外野手に転向。1990年代のヤクルト黄金時代を支えた一人。
野村監督の勇退後、同郷の大先輩・上田利治氏が監督をしていた1999年に日本ハムファイターズに移籍。2000年に千葉ロッテマリーンズへ移籍し同年現役引退。ロッテ打撃コーチ(2001年)、解説者を経て、2005年から中日ドラゴンズ捕手コーチ(バッテリーコーチではない。2006年まで)。プロ野球マスターズリーグでは、札幌アンビシャスに所属。解説者時代には格闘家への転身を目指していたが、ケガのため断念した。
ヤクルト時代、「秦」という漢字は子供のファンが読めないということから、神宮球場の電光掲示板の表示を「はた」と平仮名表記していたことがある。
[編集] エピソード
- 1992年、秦はヤクルトの主力選手として、西武との日本シリーズに臨む。初戦を取るもその後3連敗し後がなくなったヤクルトは、第5戦を延長戦の末に取り、命からがら神宮球場に戻って来た。そして迎えた10月25日の第6戦は、シリーズ史上に残る逆転また逆転のクロスゲームの末、またも延長へ。その10回裏、秦は西武の守護神潮崎哲也から右翼席中段に見事なサヨナラホームランを放ち、このシリーズを3勝3敗のタイに持ち込んだ。ちなみに、秦と潮崎は同じ高校の先輩後輩である。
- 1994年10月6日、ヤクルトは神宮球場にて、対巨人最終戦を迎える。ヤクルトには既に優勝の可能性はなく、試合前の段階で巨人が69勝59敗で首位、それを中日が68勝60敗の2位で追っており、同日同時刻、中日はナゴヤ球場で阪神と戦っており、大量リードで試合を優位に進めていた。巨人は7回表に先制するも、ヤクルトはその裏すぐさま同点に追いつき、なお走者を2人残して秦が打席に立った。ここで巨人は先発ローテーション投手であった槙原寛己をリリーフのマウンドに送るも、秦は右翼席中段に見事な勝ち越しスリーランホームランを放つ。ヤクルト逆転の速報がナゴヤ球場のバックスクリーンに表示された瞬間、ナゴヤは地鳴りのような大歓声に包まれた。結局ヤクルトはこの試合を取り、巨人と中日は10月8日のリーグ最終試合で雌雄を決することとなった(10.8決戦)。
- 1995年にヤクルトが優勝したときのビールかけで転倒し足を負傷したことがある。
- ヤクルト時代の応援歌はメロディーと歌詞が秀逸であり、人気が高い。
- 2000年、公式戦で約11年ぶりにキャッチャーマスクを被った(その試合で捕手登録選手を全員使い切ってしまったため)。
[編集] 年度別成績
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985年 | ヤクルト | 41 | 44 | 5 | 8 | 2 | 0 | 2 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 14 | .182 |
1986年 | ヤクルト | 59 | 63 | 10 | 15 | 3 | 0 | 2 | 8 | 2 | 1 | 2 | 8 | 21 | .238 |
1987年 | ヤクルト | 33 | 68 | 8 | 14 | 4 | 0 | 3 | 11 | 1 | 0 | 0 | 2 | 11 | .206 |
1988年 | ヤクルト | 122 | 354 | 33 | 89 | 17 | 3 | 7 | 29 | 3 | 5 | 0 | 29 | 52 | .251 |
1989年 | ヤクルト | 84 | 245 | 23 | 71 | 12 | 0 | 8 | 28 | 2 | 0 | 0 | 20 | 40 | .290 |
1990年 | ヤクルト | 93 | 250 | 26 | 73 | 18 | 3 | 11 | 35 | 1 | 0 | 2 | 27 | 57 | .292 |
1991年 | ヤクルト | 117 | 383 | 51 | 112 | 20 | 4 | 16 | 47 | 5 | 5 | 0 | 31 | 70 | .292(20) |
1992年 | ヤクルト | 112 | 342 | 42 | 86 | 19 | 0 | 15 | 51 | 5 | 0 | 2 | 48 | 63 | .251 |
1993年 | ヤクルト | 92 | 243 | 23 | 58 | 11 | 0 | 7 | 27 | 2 | 2 | 1 | 23 | 47 | .239 |
1994年 | ヤクルト | 92 | 248 | 25 | 65 | 6 | 4 | 9 | 31 | 6 | 1 | 1 | 14 | 32 | .262 |
1995年 | ヤクルト | 96 | 252 | 24 | 72 | 13 | 1 | 9 | 31 | 1 | 3 | 2 | 16 | 43 | .286 |
1996年 | ヤクルト | 80 | 141 | 16 | 34 | 4 | 0 | 6 | 17 | 1 | 0 | 0 | 23 | 27 | .241 |
1997年 | ヤクルト | 71 | 63 | 9 | 17 | 2 | 1 | 2 | 11 | 1 | 1 | 0 | 9 | 18 | .270 |
1998年 | ヤクルト | 49 | 48 | 1 | 8 | 3 | 1 | 0 | 4 | 1 | 1 | 1 | 2 | 10 | .167 |
1999年 | 日本ハム | 17 | 16 | 2 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | .125 |
2000年 | ロッテ | 24 | 30 | 3 | 8 | 2 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 6 | .267 |
数算成績 | --- | 1182 | 2790 | 301 | 732 | 137 | 17 | 97 | 341 | 21 | 19 | 11 | 258 | 513 | .262 |
- オールスターゲーム出場(1991年)
[編集] 背番号
- 26(1985年~1998年)ヤクルトスワローズ
- 3(1999年)日本ハムファイターズ
- 31(2000年)千葉ロッテマリーンズ(選手)
- 77(2001年)千葉ロッテマリーンズ(コーチ)
- 82(2005年~2006年)中日ドラゴンズ(コーチ)