山本功児
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山本 功児(やまもと こうじ、 1951年12月25日 - )は、昭和後期から平成期(1970年代後半-2000年代前半)のプロ野球選手、プロ野球監督。ポジションは一塁手、外野手。左投げ左打ち。打席に入り構える際に身体を幾度か揺りかごの様に左右に揺らす(但しバットを持つ手は不動)独特の構えがあった。大阪府堺市出身。
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[編集] 来歴・人物
三田学園高で選抜大会に出場し、法政大学経営学部に進学。本田技研鈴鹿から1975年にドラフト5位で読売ジャイアンツに入団した。打撃、守備とも定評があったものの、当時のチームは一塁手に王貞治を擁し、王の控えであった(1979年から1980年にかけ7試合4番打者を務めている)。王の引退後も中畑清・原辰徳の控えに回り出場機会にあまり恵まれず、1984年三宅宗源とのトレードによりロッテオリオンズに移籍、レギュラーとして初めて規定打席に到達し、打率.301を記録。同年から2年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。1988年に現役を引退。
引退後コーチ、2軍監督を経て1999年~2003年までロッテ監督に就任。辞任後、2004年チームの先輩である堀内恒夫新監督の要請で古巣・巨人の二軍ヘッド兼打撃コーチに就任、翌2005年からは一軍ヘッドコーチとなる。しかし、チームの不振で堀内は辞任、山本も同年限りで退団した。また、山本は1976年から2005年まで一度もユニホームを脱いでいなかったが、2006年より野球評論家としてスポーツ報知、アール・エフ・ラジオ日本(ジャイアンツナイター)に出演が決定。
マリーンズ監督としての選手起用については最初大塚明や立川隆史などの子飼いの若手を積極的に登用したものの、決定的な実力不足を痛感しベテラン勢や外部補強を中心に戦いながらサブローや里崎智也、小林宏之などの台頭を気長に待つことになる。こうして努めた5年間ロッテはチームは全て5位か4位に終わっているが、年々勝率を上げ2003年には借金1にまでチームを戻したところで辞任する。2004年初のプレーオフ制を争い9年ぶりの勝率5割に返り咲いた地力を地道に作り上げていった時代であるともいえるだろう。
育成だけに手腕を特化すれば、二軍監督から一軍監督時代の間に獲得・育成した選手が第2次バレンタイン政権下でのリーグ優勝・日本一の大きな原動力となったことは事実であり、チームの基本的な「枠組み」は西岡剛などの新戦力を除けば変わっていない。例えばつなぎの4番として注目されたサブローは早くから3番打者としての適正が期待されており、(本来先発タイプとされた)小林雅英のクローザー固定や、マリーンズの安定した先発陣が固定されたのもこの時期である。後一歩が足りなかった時代であり、2006年の低迷を解くカギになる時代といえるだろう。
[編集] 通算成績
- 1217試合 2523打数 699安打 64本塁打 369打点 13盗塁 205四死球 306三振 打率.277
[編集] タイトル・表彰
- ゴールデングラブ賞2回(一塁手 1984年-1985年)
[編集] 監督通算成績
- 690試合 324勝 352敗 14分 勝率.479
[編集] 背番号
[編集] エピソード
- 有名な宇野勝のヘディング事件(なお、この試合は星野仙一が登板していた)の際、打球を放ったのは山本功児である。この時宇野の頭に当たった打球はガラ空きのレフトを転々としていたため、山本は全力疾走でホームを狙うも、タッチアウトとなった。
- 過去に初芝清をファーストに回した試みもあり、評論家としては守備難や体に故障を抱える選手を嫌うようである。
- 現役当時、法政大学の大先輩で広島東洋カープの4番打者山本浩二と同姓同名であったため、広島戦では『偽コージ』と野次を飛ばされることが多々あった。また、ジャイアンツ内でも山本幸二という同姓同名の捕手が在籍していたため区別するのが困難であった(背番号も功児と一番違いの43番)。
- 巨人の4番を20打数以上務めた人物の中では最高打率(29打数11安打、打率.379)である。
- 好きな歌はフランク・シナトラで有名なマイ・ウェイ。最終戦で退団を惜しむファンが合唱した。
- ジャイアント馬場のファンでサインを貰い少年の様に喜んでいた一幕があった。
- 人情味があって熱血漢な性格だと言われる。2003年のシーズン最終戦、当時のフロントが球場に来た数人のコーチに突然の解雇通告をするという事件が起きたとき「何で最後の試合の前に…。こんなことがあってはいかん」 という怒りのコメントを述べている。このとき山本本人は既に解任が決まっており彼自身も最後の試合であったが、このように部下への気遣いから怒りを顕にするような性格であった。
- 成績は低迷したが、上記の性格もあり選手からも慕われていたようである。2003年の最終戦では試合終了後に選手達から退任する山本を胴上げしようという提案があった。しかしこのとき山本はそれを断り「胴上げするのは次の監督になってやってくれ。本当にやってやってくれ。ありがとう。」 という言葉を残している。これは2年後バレンタイン監督により実現された。
- 特に、山本に見出され巧打・巧守の一塁手として主力選手に成長した福浦和也は子供の名前の一部に山本からとって「功」の字を入れるほどである。
[編集] 現在の出演番組
[編集] 関連項目
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- ※カッコ内は監督在任期間。
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