竹下派七奉行
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竹下派七奉行(たけしたはななぶぎょう)は、昭和62年(1987年)、竹下登・金丸信が結成した経世会(竹下派)において、竹下・金丸の後継者として目された7人の有力政治家を指した言葉。彼らの歴史は、基本的に竹下系と金丸系の対立を軸に推移する。
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[編集] 七奉行と称された政治家
経世会竹下系
- 小渕恵三(通称:「凡人」「鈍牛」「冷めたピザ」「人柄の小渕」「ビルの谷間のラーメン屋」「平成おじさん」「真空総理」「ブッチホン」)
- 梶山静六(通称:「軍人」「武闘派」「大乱世の梶山」)
- 橋本龍太郎(通称:「政界の玉三郎」「怒る、威張る、すねる」「政策通」「ポマード」「足下総理」)
経世会金丸系
- 羽田孜(通称:「改革病患者」「省エネルック」「ガンコ者」「平時の羽田」)
- 渡部恒三(通称:「会津のケネディ」「おしゃべり恒三」)
- 奥田敬和(通称:「ケンカ屋」)
- 小沢一郎(通称:「豪腕」「壊し屋」「乱世の小沢」)
[編集] 概要・1991年以前
- 中曽根がリクルート事件で傷つき経世会支配(竹下・金丸支配)が強まった1988年ごろから七奉行は次々と要職に起用されてゆき、権力の中枢を歩むことになる。竹下政権では小渕官房長官と小沢副長官が微妙な距離に。宇野政権では参院選に敗れた橋本幹事長が「チッキショー」と悔しがる。最初に総理候補とされたのが1989年のポスト宇野総裁選びでの橋本だった。しかしこの時小沢が橋本の女性スキャンダルを探し出し橋本総理の芽をつぶす。これが「一龍戦争」の発端である。結局、金丸が担いだ海部政権では橋本と入れ替わるように小沢が幹事長に就任。海部政権の長期化と共に小沢の権力伸張は著しくなる。金丸の威光を背景に政策を牛耳り、竹下派竹下系を政策中枢から外したため橋本、梶山らが不満を募らせる。
- 1991年5月の東京都知事選挙で小沢は都連と対立した上敗北。この責任を取り小沢が幹事長辞任、後任幹事長に派副会長だった小渕が就任。しかし小沢は同じく派副会長から会長代行に昇格、派での影響力を増すことになった。この異動には将来小沢を会長に据えたい金丸の意向があった。これに対し竹下は再度総理として登板することに意欲を持っており、小沢を会長に据えることは反対であった。
- 1991年9月、小選挙区法案をめぐり、海部を支持する小沢を中心とする推進派の金丸系と、面従腹背の幹事長小渕を擁する慎重派の竹下系が完全に対立し、法案をつぶしたい竹下の意向が叶って廃案になる。これに対し金丸は解散で対抗する構えを見せる。海部は政治改革派の若手に押され解散して信を問う決意を固めるが、解散決定の閣議15分前に小沢会長代行が海部に「経世会は解散を支持せず」と伝える。進退窮まった海部総理は内閣総辞職に追い込まれる。
- 後継総理の座を争った宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博を経世会事務所に呼びつけ面接を行ったのが小沢と渡部であった。
[編集] 東京佐川急便事件発覚・竹下派後継会長争い(1992年以降)
- 竹下派会長であった金丸信が、平成4年(1992年)に発覚した東京佐川急便事件で会長職を辞任したのをきっかけに後継会長を巡る派内抗争に発展した。この結果、派閥オーナーである竹下と、会長代行である小沢の対立が深刻化した。
- 七奉行は竹下側に立った「小渕・橋本・梶山」と、表の羽田・裏の小沢を二枚看板とする「小沢・羽田・渡部・奥田」に分裂することになる。後継会長人事で、竹下系は竹下の側近中の側近である小渕を推し、小沢・羽田系は清新なイメージの羽田を推した。両者は中間派であった羽田グループの引き込みに奔走。羽田に対し、竹下は「派閥会長」「宮沢後の総理総裁」を約束し、小沢は「選挙制度改革の実現」を訴えた。強硬な政治改革論者であった羽田は、小沢に合流することを選択。羽田と親密であった奥田らも同調した。衆院では小沢系が67人中35人と過半数を固めたが参院は衆議院を握ればそちらへ流れると見て工作を怠った。一方小渕系は竹下の命を受けた青木幹雄・斎藤十朗らが小渕支持工作に奔走し38人中30人を固め直後の金丸、竹下、小沢の3者会談で小沢が竹下をなじる一幕があった。最終的に会長を決定する経世会最高幹部会で座長の原田憲が小渕支持の座長見解を出し小渕が後継会長の座に就いた。
- 旧竹下系は小渕派となり、第4派閥に転落した。一方の小沢・羽田系44名は経世会を離脱し、「改革フォーラム21」を立ち上げここに竹下派七奉行は名実ともに解消した。宮沢内閣で冷遇された羽田派はやがて新生党に発展し自民党の55年体制を崩壊させた。一方小渕派は徐々に力を取り戻し自民党の政権復帰後は1995年の総裁選では梶山・野中広務が橋本総裁実現に大きく貢献した。橋本は総理就任後梶山を官房長官に就け構造改革・財政再建を断行する。1997年頃、連立相手をめぐり梶山は新進党内で孤立しかけていた小沢と保保連合を模索し、自社さ派の野中広務と対立する。橋本ははじめやや保保派寄りと見られていたが1997年9月、橋本と小渕が自社さ派に屈する形で自社さ派の勝利で対立が決着した。橋本内閣は景気の悪化により1998年に総辞職。後継総裁をめぐって、自社さ派の推す小渕と保保派の推す梶山が真っ向から対立。橋本は政策的に梶山に近かったが同年齢、同期で最大の親友である小渕を支持。派の実質上のオーナー竹下も小渕を支持し、小渕総理が誕生。梶山は小渕派を離脱。
- 小渕政権は前任の橋本・梶山路線とは正反対の経済財政政策を採り、財政赤字をかえりみず景気回復に努めた。この頃から野中広務、青木幹雄、村岡兼造らポスト七奉行世代の実力者が派をリードするようになった。
- 2000年5月小渕が死去すると派閥会長は橋本が引きついだ。小渕と橋本は政策的には距離があったが政局では一度も敵対することはなかった。しかし会長になっても橋本改革路線は復活せず、野中、青木、村岡を含めた集団指導体制になった。また、2000年には竹下、梶山が相次いで死去している。
- 2001年3月、ポスト森総裁選に野中を推す声が派内で高まるが、青木が強硬に反対し実現せず、結局橋本が再び立候補することになった。橋本は野中の要望を聞き入れ総理時代の改革路線を大幅に修正し、景気回復との両立を図ることを公約に立候補したが、小泉の前にまさかの敗北を喫した。
- 2006年7月、橋本龍太郎が腸管虚血で死去。七奉行で与党側に残った議員は皆鬼籍に入った。残る小沢、羽田、渡部はいずれも野党民主党所属議員である。
- 七奉行の内、羽田、小沢、梶山の3人は金丸信から「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評価されていた。
- 「奥田、小沢、梶山、橋本」は強行型、「小渕、羽田、渡部」は調整型のリーダーといわれる。
[編集] 主な政局での対応・経歴
小渕 | 梶山 | 橋本 | 羽田 | 渡部 | 奥田 | 小沢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
金丸後継 (1992) |
小渕 | 小渕 | 小渕 | 羽田 | 羽田 | 羽田 | 羽田 |
新進党党首選 (1995) |
‐ | ‐ | ‐ | 羽田 | 小沢 | 羽田 | 小沢 |
保保連合路線 (1997) |
自社さ | 保保 | 自社さ | 野党共闘 | 野党共闘 | 野党共闘 | 保保 |
自民党総裁選 (1998) |
小渕 | 梶山 | 小渕 | ‐ | ‐ | ‐ | (梶山) |
内閣総理大臣 | ○ | ‐ | ○ | ○ | ‐ | ‐ | ‐ |
外務大臣 | ○ | ‐ | ‐ | ○ | ‐ | ‐ | ‐ |
大蔵大臣 | ‐ | ‐ | ○ | ○ | ‐ | ‐ | ‐ |
厚生大臣 | ‐ | ‐ | ○ | ‐ | ○ | ‐ | ‐ |
通産大臣 | ‐ | ○ | ○ | ‐ | ○ | ‐ | ‐ |
自治大臣 国家公安委員長 |
‐ | ○ | ‐ | ‐ | ○ | ○ | ○ |
内閣官房長官 | ○ | ○ | ‐ | ‐ | ‐ | ‐ | ‐ |
党首 | 自民党総裁 | ‐ | 自民党総裁 | 新生党党首 太陽党党首 民政党代表 |
‐ | ‐ | 新進党党首 自由党党首 民主党代表 |
党幹事長 | 自民(海部) | 自民(宮澤) | 自民(宇野) | 民主(菅) | ‐ | ‐ | 自民(海部) 新生(羽田) 新進(海部) |
国会対策委員長 | ‐ | 自民(宮澤) | ‐ | ‐ | 自民(竹下) 民主(前原 ・小沢) |
自民(海部) | ‐ |