野中広務
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野中 広務(のなか ひろむ、1925年10月20日 -)は、京都府船井郡園部村(後の園部町、南丹市園部町)出身の政治家、学者。自由民主党の元衆議院議員。衆議院議員時代の選挙区は京都4区(当選 7 回)。日中友好協会顧問。日本行政書士政治連盟最高顧問。勲一等旭日大綬章。2006年10月より平安女学院大学客員教授。
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[編集] 経歴
[編集] 地方政治
旧制京都府立園部中学校(後の京都府立園部高等学校)卒業。若いころは青年団活動に身を投じ、同じく各地の青年団運動を行っていた竹下登や浜田幸一らと活動を通じて知り合う。 日本国有鉄道職員として勤務し、当時上司であった鉄道官僚時代の佐藤榮作と知り合う。 その後、衆院議員・田中好の秘書、園部町議会議員(3期)、園部町長(2期)、京都府議会議員(3期)、京都府副知事を経る。府議の12年間は野党議員として与党共産党の蜷川府政と対峙する。
[編集] 国政
1983年8月に前尾繁三郎、谷垣専一の両衆院議員死去に伴う衆議院旧京都2区補欠選挙で初当選し国政に参加、自治大臣・国家公安委員会委員長、自民党幹事長代理、内閣官房長官、自民党幹事長などを歴任。自民党郵政事業懇話会の会長を務め、「郵政族のドン」としても知られ、特定郵便局長会に強い影響力を持ったほか、地方自治の長い経験や自治相経験から、自治省(後の総務省)にも影響力を持っていた。
金丸信の不祥事スキャンダルによる議員辞職に端を発した竹下派(平成研究会)分裂の際に、反小沢一郎グループの急先鋒として頭角を現した。
1994年の「自社さ」連立の村山富市政権発足時に、自治大臣・国家公安委員長として初入閣。1995年に起きた一連のオウム真理教のテロ事件に関して、同教団への破防法適用を強硬に主張した。内閣総理大臣・村山富市は公安調査庁に破防法適用申請を認めたものの、公安審査委員会の審議により否決された。
1996年の橋本龍太郎内閣では、小沢一郎率いる新進党と連携を図ろうとする梶山静六(官房長官)ら「保保大連合」派と対立する「自社さ」派の中心メンバーとして、加藤紘一(幹事長)を支えた。
1997年、沖縄の米軍基地用地の確保を続けるため、橋本政権は米軍用地特別措置法改正案を出し、野中は衆議院で改正案の特別委員長を務めた。法案の委員会通過後、4月11日に野中は委員会報告を行ったが、報告の最後に「私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わります」と付け加え、物議を醸した。法案は保保連合によって圧倒的多数で可決される見込みとなっていたため、保保連合を牽制したためとも、(立場上反対はできないが)純粋に性急な成立を危惧したためとも云われている。この発言は、新進党の要求により、国会会議録から消されている。なお、法案は同日の衆議院通過後、4月17日に参議院で可決成立した。
1998年の参院選の大敗で橋本が首相を退陣すると、後継の小渕恵三内閣で官房長官を務めた。小渕政権では一転して自自公連立を推進する。
2000年に小渕が倒れると、五人組による密室協議で森喜朗首相を選出させた。この密室協議は、野党から厳しく批判され、追及された。また、国民にもこの談合を厳しく非難された。その後、幹事長に就任。国会で小渕の死を悼む発言をした鳩山由紀夫に対し「小渕前総理のご心労の多くがあなたにあったことを考えると、あまりにも白々しい発言」と厳しく批判した。同年秋の加藤の乱では、加藤派の古賀誠(国会対策委員長)らと連携し、加藤派の多くを切り崩した。なお、乱終結後、野中は幹事長を辞任し、後任に古賀を充てさせる。
森首相退任に伴う2001年の自民党総裁選挙では、当初、側近の古賀・鈴木宗男らや公明党から待望論が挙がるも、橋本龍太郎や村岡兼造ら派幹部からその突出振りを疎まれていた野中には支持が集まらず、結局橋本を担ぐことになる。橋本派は業界団体との強いパイプなどから圧勝すると見られていたが、小泉純一郎に一般党員の支持が集まり、田中派結成以来、総裁選で初の敗北を喫した。なお、野中は総裁選の最中、「橋本政権樹立後は三役に留任してもらう」と主流派の取り込みを図ったが、党内外で猛烈な反発に会った。この発言も少なからず影響していたと見られる。
2003年の自民党総裁選で、主戦論を唱え、青木幹雄(参院幹事長)、片山虎之助(総務大臣)、石破茂(防衛庁長官)、新藤義孝(外務政務官)、村岡兼造(元官房長官)、大村秀章(内閣政務官)らと激しく対立。藤井孝男(元運輸相)を擁立して臨んだ総裁選では、首相・自民党総裁の小泉純一郎に大敗した。
[編集] 政界引退
2003年10月政界を引退。しかし議員引退後も各種メディアを利用しての反小泉の活動をおこなっている。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、かつて選挙区で後継者指名をした田中英夫が、郵政民営化法案に造反し反対票を投じたため自民から公認を得られず無所属で出馬。刺客として自民公認で出馬した中川泰宏に敗れた。中川は野中の議員時代の腹心で後継者と目されたこともあったが、2002年の京都府知事選で立候補・落選して以来、野中と対立していた。
亀井静香、藤井孝男、野田聖子、古賀誠、小林興起らかつての反小泉の勢力も落選・非公認などで権力抗争から外れていったため、彼らを支援していた野中の影響力も次第に低下した。
[編集] 教育界へ
2006年10月より平安女学院大学客員教授として政治学を中心とした教育、研究を実施している。また、政界への提言も引き続き実施している。
[編集] 人物
[編集] たたき上げ
野中は国会議員としては遅咲きであったため当選回数でいうと村岡ら派の他の幹部と比較して少ない方であり、弟子筋にあたる古賀誠と同じで初当選が補選であった分、野中のほうが国会議員歴が実質短い。それだけに原則的に年功序列であったかつての自民党において野中がいかに強烈な「叩き上げ」だったかがわかる。また古賀、亀井静香、鈴木宗男など協力関係にあった人物にも「叩き上げ」タイプが多い。
[編集] 被差別部落出身
- 野中は自身が被差別部落出身者であることを公言しており、野中の人生は徹底した差別との闘いでもあったと本人は語っている。
- 世襲議員が要職の多数を占める自民党内で野中が特殊な存在であったことが分かる。たとえば、魚住昭『野中広務 差別と権力』によると、麻生太郎は過去に「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」という旨の差別的発言をしていたとされる。
- 政治的には部落解放同盟との折衝やえせ同和行為を取り締まる上で武器として利用した。
[編集] 食肉利権
また、武部勤は農林水産大臣在職時の牛海綿状脳症問題発生の際、「野中を中心とする食肉業界関係の族議員などに徹底的に重要な情報を封じられた」ともいわれ、それにより「対応の初期段階で武部の行動がやや頓珍漢だったのはこのためである」とする観測もある。その後武部は、野中との対決姿勢を取り始め同じく族議員を批判していた野党・さきがけ(後のみどりの会議)の中村敦夫から声援まで送られた(「大臣を代えてどうする」)とされる。
これらの背景は「野中が事実上押さえていた」とされるもうひとつの利権・電波(テレビ等はかつて郵政省の管轄であり、野中は「郵政のドン」としても有名だった)を介するマスメディアでは事実上黙殺されている状態であるといわれる。
「『同和利権の真相』シリーズや、野中とのつながりがあったとされるハンナン会長の浅田満逮捕の報道等で風向きは若干変わってきた」という見方もあるが、一方では「いまだ大きな風穴を開けるまでには至っていない」「依然としてマスコミはタブー扱いである」という。ハンナンの一件は「小泉以前では暴かれることはなかったのでは」という見方もある。また「小泉が、世間ではマイナスイメージのある山崎や武部を重用しているのは、政界を退いても黒幕として動く野中と対決するためである」とも言われている。
[編集] 対北朝鮮宥和
外交的には、中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対する宥和的態度からそれらの「シンパ」と言われたり、「拉致問題」等において北朝鮮の同調者と捉えられ拉致家族会に厳しく批判されている他、下記の発言等において強い批判を受ける。また、テレビなどでも北朝鮮との関係が囁かれており、さまざまな疑惑がある。北朝鮮問題の専門家である早稲田大学教授・重村智計は、関西エリアの情報テレビ番組で司会者から「野中広務氏の事をどう思うか」と尋ねられた際、「私この人の名前聞きたくも無いんですよ。北朝鮮の疑惑を調査していると幾らでもこの人の名前が出てきますから」と発言している。
[編集] 創価学会との関係
かなりの創価学会嫌いで有名で批判を繰り返してきたが、自自公連立の後はなぜか全くしなくなった。「戦後混乱期に日本が共産化されなかったのは、創価学会のおかげだ」との発言もある。裏では、かなり太いパイプがあったともいわれている。
[編集] 反小泉
小泉純一郎の政策と多くの対立点があり抵抗し続けている。政治姿勢としても自民党のなかでは左派であり、自民党総裁選に際し、一部の議員をポスト目当てで小泉支持に回っていると批判し、「毒まんじゅう」という言葉を残した。自身の軍隊体験から国防に関しては「ハト派」である他、憲法の改正にも反対している(自由民主党の党是は改憲である。)。
[編集] 地元への影響
地元政界のみならず京都府内の各界に対する影響力が大きく、村山内閣の厚生大臣であった新党さきがけの井出正一が京都で地元選出の同党議員(当時)前原誠司と密かに会食をしていた事を帰京後の最初の閣議において野中に指摘されたというエピソードはその事を象徴している。
[編集] キングメーカー
幹事長代理として仕えた加藤に心酔し、小渕政権で加藤が反主流化するまで「加藤を総理にする」との姿勢を示していた。 このことから、派内で野中の突出を快く思わない幹部から「野中はキングメーカーまで狙っている」と批判された。「士志の会」を主宰する古賀とは同期当選ながら師弟関係にある。また、2度総裁選に出馬している亀井静香、麻生太郎、初の女性総理候補と目されていた野田聖子とも親しく期待していた(ただし麻生は沖縄問題で対立し、疎遠になっている)。一方、派内では、将来のリーダー候補として鈴木宗男や茂木敏充らを可愛がっていた。
[編集] その他
- 阪神タイガースのファンである。
[編集] 関連項目
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