青木幹雄
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青木 幹雄(あおき みきお、1934年(昭和9年)6月8日 ‐ )は、日本の政治家。参議院議員(4期)。自由民主党参議院議員会長。
島根県議会議員(5期)、自民党参院幹事長を歴任。竹下登の秘書を長く務めた。
生年月日 | 1934年(昭和9年)6月8日 |
---|---|
出生地 | 島根県簸川郡大社町 (現・出雲市) |
出身校 | 早稲田大学第二法学部退学 |
学位・資格 | ‐ |
前職・院外役職(現在) | 島根県議会議員 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
参・懲罰委員会委員 参・法務委員会委員 |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
島根県選挙区 |
当選回数 | 4回 |
所属党派(現在) | 自由民主党(津島派) |
党役職(現在) | 参議院議員会長 島根県支部連合会会長 |
会館部屋番号 | 参・議員会館534号室 |
ウェブサイト | [‐] |
目次 |
[編集] 概要
[編集] 竹下の黒子
旧大社町の漁協組合長を務めた漁師の家で育つ。早稲田大学第2法学部に進学し、早稲田大学雄弁会では幹事長を務めた。ちなみに、当時の雄弁会副幹事長は森喜朗であった。学生時代に竹下登の選挙を手伝った縁で、そのまま地元・島根に戻り、竹下の秘書となり、大学は中退する。竹下の「城代家老」として活動し、その後島根県議会議員に当選、副議長を務めた。
1986年、竹下の要請を受けて第14回参議院議員通常選挙に立候補し当選。竹下譲りの気配りと腰の低さをもってして、「竹下の黒子」として永田町界隈を奔走。小泉純一郎とは、1994年の大蔵政務次官就任の頃から親しくなる。
1998年に小渕恵三が内閣総理大臣に選出されると、青木は党参院幹事長に就任し、内閣官房長官として病床の竹下に代わって内閣を支えた。2000年、小渕が緊急入院し意識不明の状態になると、首相臨時代理に就任、内閣総辞職を決定し、党両院議員総会で雄弁会の後輩であった森を総裁に選出した。しかし、首相臨時代理に就任から森内閣成立の過程が不透明として、「五人組」の一人として批判される。
森内閣でも内閣官房長官に留任したが、同年6月の内閣改造で官房長官を退き、党参院幹事長に再度就任。竹下・小渕ら幹部が不在となり、橋本龍太郎に代替わりした派閥を野中広務らと支えた。森の軽率な発言などで青木が辟易していた時、加藤紘一と極秘で会談。「(支持率の低い)森さんのままでいいのか?」と言う加藤に対し、青木はのらりくらりとした「竹下語」(言葉明瞭、意味不明瞭)で応えて意志を明確にしなかった。このことが後の加藤の乱の一因になったとされる。
[編集] 参院のドン
2003年の党総裁選挙では現職の小泉を支持、参院橋本派をまとめて同派幹部で反小泉の野中と激しく対立した。
2004年の第20回参議院議員通常選挙では、「自民党が51議席を獲得出来なければ党参院幹事長を辞任する」と自ら宣言していたが、結果は49議席と敗北。しかし、後継執行部人事で党参院議員会長の就任をベテラン議員に要請したところ、ことごとく辞退される。結局「他に会長になる人がいない」ということで、小泉総裁の要請を受け入れる形で自らが党参院議員会長に就任し、「選挙の責任をとって昇格」と若手議員から批判を受けた。
竹下側近としての政治活動から、参院自民党全体に強い影響力を持っており、「参院のドン」とも呼ばれる。そのため、独裁的とも言われる小泉に直言できる数少ない有力者であった。小泉内閣の公共事業削減で、ご当地の島根県で大幅な削減計画を発見すると、関係官僚を呼び出し一喝して撤回させた。このことはニュースで注目を集めるも、小泉は一切触れなかった。青木の影響力の大きさが垣間見えた出来事であった。
麻生太郎、額賀福志郎など将来の党総裁候補に目をかけていた。しかし、今では両者の度重なる失態で半ばサジを投げているのが現状。
2005年の郵政民営化を巡る政局(郵政国会)では、必ず法案を通すことを条件に衆議院執行部側に内容や会期延長幅などについて譲歩させたが、参議院で大量の造反を許し面目を失う。しかしその後、第44回衆議院議員総選挙の結果が出ると参議院造反組は総崩れになり、参議院不要論まで飛び出るなど青木以上に面目を失ったため、青木体制は守られた。
[編集] 人物
- 三度の飯よりもタバコのチェリーが大好物なことで有名。
- 「だわね」が口癖(竹下登は「だわな」)で、“ずーずー訛り”がある。どちらも出身地である島根東部の方言(出雲弁)による。出雲弁は発音にも特徴が顕著なため標準語を喋っていてもその影響を強く受けてしまう。
- 競馬の大ファンで党参院競馬推進議員連盟の会長も務めている。
- 政局の勘が鈍る、という理由で政策の勉強をしないと言われるほど根っからの「政治屋」。そのためか小泉純一郎の構造改革路線に共感しているわけではなく、というより否定的で基本的には旧来の利益誘導型政治家の代表格であるが、同じ派閥の野中のように政策の方向性を巡って原理主義的対決姿勢をとったりせず、是々非々で実を取る姿勢をとっている。特に党内の対立が深まったときには森と協調して党内宥和を主張をしてきた。
- 小泉政権下の元で、一貫して竹下派が弱体化したが、最後の最後には必ず小泉を支持してきた。その行動の真意が、参院単独過半数回復、森との早稲田大学雄弁会での絆、反野中などのいずれに当たるのか今もって謎である。
[編集] 略歴
[編集] 経歴
- 1934年(昭和9年)
- 8日 出生。
- 1947年(昭和22年)
- 3月 大社町立大社国民学校卒業。
- 1950年(昭和25年)
- 3月 大社町立大社中学校卒業。
- 1953年(昭和28年)
- 3月 島根県立大社高等学校卒業。
- 1958年(昭和33年)
- 1966年(昭和41年)
- 10月 大社町漁業協同組合長理事就任。
[編集] 政歴
- 1967年(昭和42年)
- 1971年(昭和46年)
- 4月 島根県議会議員選挙(簸川郡選挙区・自民党公認)2期目当選。
- 1975年(昭和50年)
- 4月 島根県議会議員選挙(簸川郡選挙区・自民党公認)3期目当選。
- 1979年(昭和54年)
- 4月 島根県議会議員選挙(簸川郡選挙区・自民党公認)4期目当選。
- 1983年(昭和58年)
- 4月 島根県議会議員選挙(簸川郡選挙区・自民党公認)5期目当選。
- 1986年(昭和61年)
- 7月6日 第14回参議院議員通常選挙(島根県選挙区・自民党公認)当選。
- 1992年(平成4年)
- 7月26日 第16回参議院議員通常選挙(島根県選挙区・自民党公認)2期目当選。
- 1994年(平成6年)
- 9月30日 参議院農林水産委員長就任。
- 1998年(平成10年)
- 7月12日 第18回参議院議員通常選挙(島根県選挙区・自民党公認)3期目当選。212,498票。
- 7月27日 党参議院幹事長就任。
- 1999年(平成11年)
- 2000年(平成12年)
- 4月3日 内閣総理大臣臨時代理就任。
- 4月5日 内閣官房長官兼沖縄開発庁長官(第1次森内閣)就任。
- 7月27日 党参議院幹事長就任。
- 2004年(平成16年)
- 7月11日 第20回参議院議員通常選挙(島根県選挙区・自民党公認)4期目当選。254,704票。
- 7月26日 党参議院議員会長就任。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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