竹槍事件
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竹槍事件(たけやりじけん)とは第二次世界大戦(大東亜戦争)中の1944年(昭和19年)に発生した東条英機首相による言論弾圧事件。事件対応をめぐり陸軍と海軍が対立する一幕もあった。陸軍悪玉論の根拠として出される。
[編集] 概要
真珠湾攻撃による日米開戦時の首相であった東条英機は、戦争遂行の為に「東条幕府」と揶揄される程の独裁的政治を行った事で様々な問題や軋轢を生んでいた。また、軍務や政務に私情を持ち込む傾向があり、反対意見に耳を塞いだのみならず、個人的に嫌いな人物や敵対者を懲罰召集して激戦地に送る仕打ちをした。
東条が出した『非常時宣言』の中の「本土決戦」によると、「一億玉砕」の覚悟を国民に訴え、銃後の婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を実施した。そうした中、1944年2月23日の毎日新聞朝刊に『竹槍では勝てない、飛行機だ』と新名丈夫記者(当時37歳)が執筆した記事が掲載された(このことは妹尾河童の小説『少年H』にも出てくる)。
新名の記事は「海空軍力を速やかに増強し洋上で戦え」という意味の記事で、陸軍の本土決戦構想に反対する海軍の指導によって書かれた。この記事に対し、東条は自分に批判的な記事を書いた新名を二等兵として召集し、激戦地となることが予想される硫黄島へ送ろうとした。
これに対し、新名が黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者であったことから、海軍が召集に抗議した。そのため、新名は海軍の庇護により連隊内で特別待遇を受けて3ヵ月で召集解除になった。その後、東条の意志で陸軍が新名を再召集しようとしたが、海軍が先に徴用令を出し新名を救った。
[編集] 影響
新名が徴兵検査を受けたのは大正時代のことで、その世代は1人も召集されてなかった。そのため、海軍は「大正の兵隊をたった1人取るのはどういうわけか」と陸軍を批判した。それに対し、陸軍は、新名と同世代で大正時代に徴兵検査を受けた人間を250人召集し、丸亀連隊に入営させて辻褄を合わせた。その30代後半の老兵達は、全員が硫黄島の戦いで玉砕・戦死した。
[編集] 映画
- 『激動の昭和史 軍閥』