笑福亭枝鶴 (5代目)
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5代目 笑福亭 枝鶴(5だいめ しょうふくてい しかく、1945年9月5日 - )は、元上方噺家。6代目笑福亭松鶴の実子。本名は竹内日吉。
1961年5月、実父である6代目松鶴に入門し、5代目笑福亭光鶴を名乗る。1973年10月、道頓堀角座にて、10代目桂小米の2代目桂枝雀襲名、桂小春の4代目桂福團治襲名と同時に、5代目笑福亭枝鶴を襲名。その後、1978年に芸界を離れ、放蕩癖があったため何度も廃業と復帰を繰り返したが、1985年、6代目松鶴の死の前年に復帰。
父の死後、7代目松鶴を嘱望されたが、父の死のショックからなのか、大トリを勤めるはずの6代目松鶴一周忌記念落語会を無断欠席し、所属事務所の松竹芸能を解雇され、上方落語協会からも除名追放され、のちに廃業し、芸界を引退。6代目松鶴の筆頭弟子・笑福亭仁鶴が面倒を見ていたとの噂もあったが、現在の消息は不明。6代目松鶴ファンの間では、放浪癖から浮浪者になった、などの説も飛び交っている。また、賛否両論の声も相次いでいる。
持ちネタは『宿替え』『竹の水仙』『禁酒関所』『ろくろ首』『道具屋』『刻うどん』『へっつい盗人』など豊富であり、父・6代目松鶴とはまた違った独特な間を持ち、そのまま精進していれば良い噺家になったであろうと思われる。
門下の笑福亭小つるは、1984年以降、6代目松鶴の預かり弟子となった。
[編集] エピソード
- 1970年から翌年頃にかけて、父・6代目松鶴の意向により5代目桂文枝の預かり弟子となり、吉本興業の花月に出演し、腕を磨いていたが、1年間しか続かなかった。5代目文枝は『あんけら荘夜話』において、枝鶴について「父に対して甘えがある」「刹那刹那を生きている」「父の私生活が無茶苦茶なため、息子に対して押さえが利かない」と、的確な批評をしている。
- ビートたけし夫人との不倫スキャンダル騒動があった。たけし夫人はもともと上方少女漫才の出身であり、枝鶴とは旧知の間柄であった。たけしの度重なる不倫スキャンダルに対して相談に及んだところが、騒動になった。当時、たけしは笑福亭鶴瓶(枝鶴の弟弟子)とテレビで共演した際、「コノヤロー!オレのカミさん返せ!」と首を絞め、鶴瓶が「オレやない!人違いや!」と返すやりとりがあった。(当然、二人の顔は笑っており、一種のギャグであった。)
[編集] 出典
- 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
- 『あんけら荘夜話』(5代目桂文枝談、青蛙房、1996年)P198-201