粉河寺
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粉河寺(こかわでら)は、和歌山県紀の川市粉河にある天台系の寺院。西国三十三箇所第3番札所。山号は風猛山(かざらぎさん)。宗派は天台宗系の粉河観音宗総本山。
本尊は、千手千眼観音菩薩。創建は宝亀元年(770年)、大伴孔子古(おおとものくじこ)によるとされる。
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[編集] 歴史
草創の縁起は「粉河寺縁起絵巻(国宝)、京都国立博物館に寄託)に伝えられている。
「粉河寺縁起」には2つの説話が語られている。1つ目の話は粉河寺の草創と千手観音の由来に関するものである。紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年(770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。これが粉河寺の始まりという。その後のある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。
2つ目の話は千手観音の霊験説話である。河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである。
以上の説話がどこまで史実を反映したものかは定かでないが、粉河寺は平安時代には朝廷や貴族の保護を得て栄えたことは確かである。清少納言の『枕草子』にも、「寺は石山、粉河、滋賀」と言及されており、平安時代後期には、その頃から始まった西国三十三箇所観音霊場巡りの札所の1つとして栄えた。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉が紀州に攻め入り、根来寺や雑賀衆とともに抵抗したものの全山焼失した。この時、粉河寺縁起絵巻も焼損した。正徳3年(1713年)にも火災があり、現在の伽藍はほとんどがそれ以降の江戸時代の再建である。
大門から南に約1km続くJR粉河駅前通は、門前町として栄えたが、県道の拡幅工事により、かつての面影はなくなってしまっている。
[編集] 伽藍
- 大門(重要文化財) - 境内入口に建つ。宝永4年(1707年)建立。入母屋造、本瓦葺きの楼門(2階建て門)。
- 中門(重要文化財) - 入母屋造、本瓦葺きの楼門。棟札によれば明和(1764 - 1772)頃から長い年月をかけて天保3年(1832年)に完成した。
- 本堂(重要文化財) - 中門の先、一段高くなった敷地に建つ。享保5年(1720年)上棟。本尊千手観音(秘仏)を安置する正堂(しょうどう)と、礼拝のための礼堂(らいどう)を前後に並べた形式になり、外観は高さの違う入母屋屋根を前後に並べた複雑な構成になる。西国札所として、多数の参詣人を収容する必要から、礼堂部分を広く取っている。
- 千手堂(重要文化財) - 宝暦10年(1760年)建立。本堂の左に建つ宝形造(ピラミッド形屋根)の小堂である。
- 童男堂(和歌山県指定文化財)
[編集] 庭園
本堂の擁壁を兼ねた前庭は、豪壮な石組みに植栽を合わせた座視式の枯山水蓬莱庭園である。 桃山時代・上田宗固の作庭とされる先例のない様式で、国の名勝に指定されている。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 紙本著色粉河寺縁起絵巻 - 内容については本ページの「歴史」の項で述べた。鎌倉時代初期の作と思われる。当時の生活の様子がわかる風俗資料としても貴重なものである。全巻にわたり、料紙の上端と下端に焼損痕があり、絵や詞書の一部が失われているのが惜しまれる。京都国立博物館寄託。
[編集] 重要文化財
- 大門
- 中門
- 本堂
- 千手堂
[編集] 名勝
- 庭園
[編集] 交通
[編集] 関連項目
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