清少納言
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清少納言(せい しょうなごん、康保三年頃(966年?) - 万寿二年頃(1025年?))は平安時代の女流作家、歌人。本名は清原諾子(なぎこ)という説もあるが、不詳。
[編集] 経歴
「梨壺の五人」の一にして著名歌人であった清原元輔(908年-990年)の晩年の娘。母を『後撰集』に見える「檜垣嫗(ひがきのおうな)」とする古伝があるが、荒唐無稽の説に過ぎない。曽祖父(祖父とする説もある)は古今和歌集の代表的歌人である清原深養父である。兄弟姉妹に、雅楽頭為成・太宰少監致信・花山院殿上法師戒秀、および藤原理能(道綱母の兄弟)室となった女性がいる。「清少納言」は女房名で、「清」は清原の姓から、「少納言」は親族の役職名から採ったとされている。実名は不明、「諾子(なぎこ)」という説(『枕草子抄』)もあるが信ずるに足りない。中古三十六歌仙の一人に数えられ、42首の小柄な家集『清少納言集』(歌数は異本による。流布本では31首)が伝わる。『後拾遺』以下、勅撰集に14首入集。また漢学にも通じた。
天延2年(974年)、父の周防守赴任に際し同行、4年の歳月を「鄙」にて過ごす(『枕草子』における船旅の描写は、単なる想像とは認めがたい迫真性があり、あるいは作者は水路を伝って西下したか)。この間の京への想いは、後の宮廷への憧れに繋がったかもしれない。
天元4年(981年)頃、陸奥守・橘則光(965年-1028年以後)と結婚し、翌年一子則長(982年-1034年)を生むも、武骨な夫と反りが合わず、やがて離婚した。但し、則光との交流はここで断絶したわけではなく、一説では長徳4年(998年)まで交流があり、妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だったという。のち、摂津守・藤原棟世との間に娘小馬命婦をもうけた。
一条天皇の時代、正暦4年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で才気煥発な彼女は、主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬をうまく交わし、宮廷社会に令名を残した。藤原実方(?-998年)、同斉信(967年-1035年)、同行成(972年-1027年)、源宣方(?-998年)、同経房(969年-1023年)との親交が諸資料から窺える。殊に実方との贈答が数多く知られ、恋愛関係が想定される。
清少納言の名が今日まで普く知られているのは、彼女の主要な作品『枕草子』によってである。『枕草子』には、ものはづくし(歌枕などの類聚)、詩歌秀句、日常の観察、個人のことや人々の噂、記録の性質を持つ回想など、彼女が平安の宮廷ですごした間に興味を持ったものすべてがまとめられている。
清少納言と、同時代の『源氏物語』の作者・紫式部とのライバル関係は、後世盛んに喧伝された。しかし、紫式部が中宮彰子に伺候したのは清少納言が宮仕えを退いてからはるか後のことで、二人は一面識さえないはずである(もっとも、角田文衞博士は論文「晩年の清少納言」で異説を提唱し、『権記』に見える一宮敦康親王の「少納言命婦」を手掛かりに、清少納言が定子死後もその所生の皇子女に引き続き仕えた可能性を指摘した)。
紫式部が紫式部日記(『紫日記』)で清少納言の人格と業績を全否定するかの如き筆誅を加えているのに対し、清少納言が枕草子で紫式部評を残している訳ではない一方的な関係からもこの見方は支持される。
- 「さい少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば、まだいと足らぬこと多かり かく 人に異ならむと思ひ好める人は かならず見劣りし 行末うたてのみはべれば え心になりぬる人は いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ をかしきことも見過ぐさぬほどに おのづからさるまてあだなるさまにもなるにはべるべし そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」 - 『紫日記』黒川本
もっとも、『枕草子』には紫式部の亡夫・藤原宣孝が派手な衣装で御嵩詣を行った逸話や従兄弟・藤原信経を清少納言がやり込めた話が記されており、こうした記述は紫式部の才能を脅威に感じて記したものであるという説も存在する。
長保2年(1000年)に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞めた。その後の彼女の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、一旦再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われ、晩年は東山月輪の辺りに住み、和泉式部や赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を交わしていたらしい。『枕草子』は長保3年(1001年)から寛弘7年(1010年)の間に完成したと考えられている。
没年は不明で、墓所が各地に伝承される。
[編集] 清女伝説
清少納言の落魄説話が鎌倉時代に書かれた『無名草子』『古事談』などにあり、『古事談』には、「鬼形之法師」と形容される出家の姿となり、兄・清原致信が源頼親に討たれた際、巻き添えにされそうになって陰部を示し女性であることを証明したという。
また全国各地に清女伝説(清少納言伝説)がある。鎌倉時代中期頃に成立したと見られる『松島日記』と題する紀行文が清少納言の著書であると信じられた時代もあったが、江戸時代には本居宣長らによって偽書と判断されている。
伝墓所
- 徳島県鳴門市里浦町坂田:比丘尼の姿で阿波里浦に漂着し、その後辱めをうけんとし自らの陰部をえぐり投げつけ姿を消し、尼塚という供養塔を建てたという。
- 香川県琴平金刀比羅神社大門:清塚という清少納言が夢に死亡地を示した「清少納言夢告げの碑」がある。
- 京都市中京区新京極桜ノ町:誓願寺において出家、往生をとげたという。
歌碑
- 京都市東山区:百人一首にも採られて有名な「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」の歌が刻まれた清少納言の歌碑。定子皇后の鳥辺野陵近く、皇室と縁深い御寺・泉涌寺の仏殿の隣に立つ。嘗てここに清原元輔の山荘があり、晩年の清少納言が隠棲したと思われる所として、昭和49年(1974年)、当時の平安博物館館長・角田文衞氏の発案によって歌碑が建立された。
[編集] 参考文献
- 『清少納言伝記攷』 新生社 岸上慎二著
- この本によって、清少納言の生年を康保3年頃とし、また初出仕を正暦4年とするなどの推論が広まった。