荘田平五郎
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荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、弘化4年10月1日(1847年11月8日) - 大正11年(1922年)4月30日)は日本の男性実業家。
[編集] 生涯
弘化4年(1847年)、豊後国臼杵(現・大分県臼杵市)に、臼杵藩の儒者荘田允命の長男として生まれる。藩校の学古館で抜群の秀才だった荘田は慶応3年(1867年)、19歳で選抜され江戸の英学塾青地信敬塾(あおちしんけいじゅく)に入門。その後一時薩摩藩の開成所に転じ、明治3年(1870年)、23歳で再び上京し念願の慶應義塾に入塾した。福沢諭吉は荘田の卓抜した識見と才能を認め、わずか4カ月後には荘田を義塾の教師とした。荘田はやがて義塾分校設立のために大阪、京都に派遣され、そこで「学問と算盤(そろばん)の両刀使い」ぶりを十分に発揮し福沢の期待に応えた。
明治7年(1874年)、三田に戻り、再び慶應義塾で教鞭(きょうべん)を執ることになった。明治8年(1875年)2月に三菱に入社。三菱での荘田の最初の仕事は「三菱汽船会社規則」の策定だった。明治8年5月に発表された。さらに2年後に経理規程ともいうべき「郵便汽船三菱会社簿記法」を纏(まと)めた。これにより三菱は、大福帳経営を脱し、日本で初めて複式簿記を採用し、徐々に近代的な経営システムを確立する。
初期三菱の経営戦略を担った荘田は、東京海上保険会社(現在の東京海上日動火災保険)、明治生命(現在の明治安田生命)保険会社の設立に関わり、第百十九国立銀行を傘下に入れ、東京倉庫会社を設立するなど、さまざまな分野への進出を図った。明治18年の日本郵船設立に際しては三菱側代表として創立委員になり理事に就任した。明治19年(1886年)に三菱が海運以外の事業を目的として「三菱社」の名で再発足するときに本社支配人として復帰、のち管事となり新生三菱を指揮した。 1888(明治21)年に発売となったキリンビールの「麒麟」の名付け親でもある。当時輸入されていた西洋ビールに狼や猫等の動物が用いられていた為、東洋らしさを出す為空想上の動物「麒麟」を商標にしようと荘田が提案したのである。
明治22年(1889年)、荘田は英国の造船業界などの実情視察のために外遊した際に、ロンドンのホテルの部屋で開いた新聞のコラムに「日本政府、陸軍の近代的兵舎建設のために丸の内の練兵場を売りに出すも買い手つかず」とあるのを発見した時に「日本にもロンドンのようなオフィス街を建設すべきだ。皇居の目の前の丸の内こそその場所だ。」と感じ、岩崎弥之助に「丸の内、買い取らるべし」と打電。岩崎弥之助が松方正義蔵相と合意した買取額は128万円。当時の東京市の年度予算の3倍。荘田は丸の内の産みの親である。
また、荘田は長崎造船所の大改革も行なった。長崎造船所は明治20年(1887年)に国から払い下げられた。明治28年(1895年)に日本郵船が欧州航路の開設を決定したが、社外取締役の荘田の主張で新造船6隻のうち1隻は長崎造船所に発注された。常陸丸(ひたちまる)6172トン。それまでの最大建造実績は須磨丸の1592トンだから技術的にも大変なジャンプである。明治30年(1897年)に造船奨励法が公布され、修繕船から脱皮し新造船を事業の中核にするのだという明確な意識を持った岩崎久弥は、本社の管事として全事業を指揮する立場にあった荘田をあえて長崎造船所長に任命した。荘田は勇躍長崎に赴き、積極的な設備拡充を図り、貨客船や軍艦などその後の日本の大型船建造の道を開拓した。
荘田の近代化はハード面だけではなかった。「傭使人扶助法(ようしにんふじょほう)」「職工救護法」など労務管理制度を確立、所内には工業予備校を設立し自前で職工の養成を図るようにした。また、造船における厳しい原価計算の概念を導入した。今では当たり前のことだが、当時の日本企業には製造原価など工業簿記の概念はなかった。
荘田は明治39年(1906年)まで長崎造船所の所長を務め、また永らく管事として弥太郎、弥之助、久弥の三代を支え、明治43年(1910年)に引退した。豪傑肌の人物が多い明治の三菱の経営者たちの中にあって、唯一の英国風のジェントルマンであり、生涯を通して「組織の三菱」といわれるような近代的なシステムづくりに貢献した。
その後、荘田は明治生命保険会社の取締役会長になった時期もあったが、晩年は受刑者の社会復帰事業に協力したり聖書の勉強をしたり、後進の指導と共に静かな余生を送り、大正11年(1922年)に74歳で他界した。妻は弥太郎の妹・佐幾(さき)の長女・藤岡田鶴(たづ)。