荻原重秀
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荻原 重秀(おぎわら しげひで、万治元年(1658年) - 正徳3年9月26日(1713年11月13日))は、江戸幕府の勘定奉行。元禄時代に貨幣改鋳をおこない、インフレ経済をもたらしたことで有名。通称は彦次郎、五左衛門。官位は従五位下・近江守。
[編集] 経歴
旗本荻原十助種重(200俵)の次男として江戸に誕生。母は横松氏の娘。武鑑に本国甲斐とあるのは、荻原家始祖常陸介昌勝(1461年-1535年)が武田氏より分家して甲斐国荻原村に移り住んだためであるという。昌勝は武田信虎・晴信の2代にわたって弓術と兵法を教えたと言われ、武田二十四将の1人に加える異説もある人物であり、子孫は武田氏滅亡後に徳川氏に仕えたとされる。荻原家の家督は兄の荻原左兵衛成重が継ぎ、重秀は別家を興した。
延宝2年(1674年)10月26日に幕府勘定方に列し、11月7日に将軍徳川家綱にはじめて謁見。延宝3年(1675年)12月21日、切米150俵を支給された。延宝7年(1679年)12月3日、先の五畿内検地の功績で時服二領羽織一領を与えられた。天和元年(1681年)に上野国 沼田藩主真田伊賀守信利が改易にされた際にはその郷村の受け取りのために沼田藩へ赴いた。天和3年(1683年)10月11日、勘定組頭に就任。12月21日に100俵を加増。
貞享4年(1687年)9月10日、勘定頭三名の罷免により勘定頭差添役(のちの勘定吟味役)に任命され、さらに300石を加増され、先の250俵の切米も領地に代えられて都合550石を領した。12月25日には布衣の着用を許された。元禄2年(1689年)8月21日、200石加増(都合750石)。元禄3年(1690年)10月7日には佐渡奉行に任ぜられた。
元禄8年(1695年)12月22日、1,000石の加増(都合1,750石)。9年(1696年)4月11日、勘定奉行に就任し、250石を加増(2,000石)。12月22日に従五位下近江守に就任した。元禄11年(1698年)12月21日にはさらに500石の加増があり(都合2,500石)、元禄12年(1699年)4月には長崎へ赴いている。元禄16年(1703年)2月にも稲垣重富の副使として京都・大阪・長崎などへ赴いている。宝永2年(1707年)12月11日に700石加増される(都合3,200石)。
宝永4年(1709年)に徳川綱吉が死去し、徳川家宣が六代将軍となると、新井白石などの家宣近臣たちとの関係が悪化。宝永7年(1712年)4月25日、張り紙値段を勝手に引き下げようとして、将軍家宣への拝謁を禁止されているが、わずか4日後の29日には許されている。12月11日には500石の加増を受けており、都合3,700石を領した。さらに正徳元年(1711年)7月18日にも評定所での精勤ぶりをもって熨斗縮絹紬、越後縮などを与えられている。
しかし新井白石の憎悪は深く、度重なる弾劾を受けて、病没寸前の家宣はついに折れ、9月11日に勘定奉行を罷免された。嫡男の荻原乗秀には辛うじて越前国坂井郡で700石の相続が許された。正徳3年(1713年)9月26日に死去。絶食して自害したとも言われる。東京都台東区谷中の長明寺に葬られた。法名は日秀居士。妻は青柳勘右衛門道孝の娘、後妻は高木忠右衛門定清の娘。なお嫡男・乗秀の母はそのいずれもでなく、某氏の娘。
[編集] その財政政策
将軍徳川綱吉時代の経済政策を一手に任された荻原重秀は、元禄8年(1695年)、それまでの慶長金銀の貨幣改鋳を断行し、金含有率を格段に減らした元禄金銀を作ったことで有名。約500万両の改鋳差益金で幕府財政をある程度持ち直したが、このために経済は混乱し、未曾有の物価急騰(インフレ)となったことは良く知られている。また長崎貿易にも代替物を増額して運上金を徴収し、全国の酒造家にも50%の運上銀をかけるなど一貫して幕府歳入の増加に努めた。
新井白石『折たく柴の記』の「荻原は26万両の賄賂を受けていた」という悪宣伝もあって、とかくインフレ経済の責任者として悪評が高い荻原重秀だが、この改鋳の背景には、元禄期に急速に経済発展したためにこの経済に見合うだけの貨幣数量が必要であったこと、貿易で大量の金銀が外国に流出していたこと、金銀産出量がこの時代に急速に減ったこと、元禄地震(関東)・宝永地震(東南海)・富士山宝永噴火など大災害が相次いだこと、将軍徳川綱吉とその生母桂昌院の散財があまりに激しかったために幕府の金蔵は空になっていたこと、金銀両通貨圏のバランスを取り戻すために両通貨の品位を調整しなければならなかったこと、などへの対策であるという側面を見逃してはならない。