真田信利
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真田 信利(さなだ のぶとし)は、江戸時代前期の上野国沼田藩主。
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生誕 | 寛永12年(1635年) | |||
死没 | 貞享5年1月16日(1688年2月17日) | |||
別名 | 兵吉 | |||
藩 | 上野沼田藩5代目藩主 | |||
氏族 | 真田氏 | |||
父母 | 父:真田信吉、母:慶寿院(依田氏) | |||
兄弟 | 真田熊之助、真田信利 | |||
妻 | 山内忠豊の娘・松姫 | |||
子 | 真田信音、真田信秋、栗本外記、辰之助 |
目次 |
[編集] 年譜
- 1635年(寛永12年):生まれ
- 1639年(寛永16年):利根郡5000石を分与される(6月20日)
- 1656年(明暦2年):上野沼田3万石を与えられ(10月)、従五位下伊賀守叙任
- 1681年(天和元年):改易(11月22日)
- 1688年(貞享5年):死去、享年54(死後の9月30日、元禄に改元)
[編集] 沼田襲封まで
真田信吉の次男として生まれる(信吉は真田信之の庶子)。もともと沼田3万石は厳密には独立した藩ではなく、松代藩の分領であった。沼田は信吉死後、信利の兄の熊之助が統治していたが、幼くして没した(1638年)。当時は信利も3歳だったため、信利の叔父に当たる真田内記信政が相続した。信利には沼田領の内から利根郡に5000石を分与された。
[編集] 松代藩相続争い
明暦2年(1656年)、松代藩主の真田信之が隠居したのに伴い、内記信政は本家松代藩を相続し、沼田領は信利が領有することになる。ところが、内記信政はわずか2年後の明暦4年(1658年)2月に死去し、松代藩はまだ存命だった大殿の信之の決定により、信政の子の幸道を後継者とし、幕府に届け出た。その時、信利は信之の長子信吉の子であることを理由に「松代藩の後継者は自分である」と幕府に訴え出、撤回を求めた。
信利には妻の実家の土佐藩や、下馬将軍酒井忠清が後ろ盾となり、大規模な家督騒動を展開したが、6月、幕府は幸道をもって松代藩の後継者と最終決定した。このとき、幕命により、沼田領は松代藩から独立して正式に沼田藩として立藩している。
[編集] 改易までの経緯
これ以降、信利は10万石の松代本家に対抗するため、寛文2年(1662年)より領内総検地を断行し、表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打出し幕府に報告した(沼田藩改易後、幕府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった)。また、沼田城を修築して五層の大天守閣を立て、江戸の藩邸も松代藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装したため、領民はますます窮乏した。
天和元年(1681年)、幕府は沼田藩に両国橋改修土木普請を命じたが、折からの台風と動員される領民たちのサボタージュで期日に間に合わなかった。さらに同年、長年の領民の怒りが磔茂左衛門一揆という形で噴出した。沼田藩は、幕府から治世不良、工事遅滞の責めを問われ、改易された。信利は山形藩奥平家に、長男の信音は赤穂藩浅野家に、三男の栗本外記直堅・四男の辰之助は上田藩仙石家にお預けとなった。
その後信利は、奥平家の転封に従って、山形から宇都宮に移り、同地で没した。
墓地:龍華院弥勒寺
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