藤原道兼
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藤原 道兼(ふじわら の みちかね、応和元年(961年)-長徳元年5月8日(995年6月13日))は、平安時代中期の公卿。関白。別称は、粟田殿、二条殿、町尻殿。
応和元年(961年)藤原兼家の三男として誕生する。母は藤原中正女時姫。同母の兄弟姉妹に道隆、道長、超子、詮子がいる。永観2年(984年)8月花山天皇の蔵人となる。花山天皇が寵愛していた女御藤原忯子が亡くなったのを機会とした、父兼家の意を受けて、寛和2年(986年)6月23日丑の刻、花山天皇を誑かして元慶寺(花山寺)に連れ出し出家させた。花山天皇が出家、退位したことにより、詮子所生の皇子懐仁親王が践祚され一条天皇となった。兼家は摂政となり政権を掌握した。道兼も同年7月参議となったのを皮切りに、10月には従三位、権中納言。11月正三位、永延元年(987年)従二位、永祚2年(989年)正二位、権大納言、正暦2年(991年)内大臣、正暦5年(994年)右大臣と累進を重ねた。だが、花山天皇退位の最大の功労者だった自分よりも先に兄の道隆が関白に任じられた事に大いに不満を感じていたと言われている。長徳元年(995年)4月10日に兄の関白道隆が没し、甥の内大臣伊周を退けて4月27日に関白となるが、5月8日に病の為、没した。世に「七日関白」(在任は7日ではない、一説には宮廷に関白として初参内してから7日目であったからだともいう)と称された。死後、正一位、太政大臣を追贈された。
子女には、宇都宮氏の祖となった中納言藤原兼隆、一条天皇の女御となった尊子がいる。
[編集] 官歴
※日付=旧暦
- 975年(天延3)1月7日、従五位下に叙位。
- 979年(天元2)12月2日、侍従に任官。
- 980年(天元3)、昇殿を許される。
- 983年(天元6)1月27日、弾正少弼に転任。
- 984年(永観2)1月10日、蔵人に補任。 8月25日、従五位上に昇叙。 8月27日、新帝(花山天皇)蔵人に補任。 10月10日、正五位下に昇叙し、蔵人如元。 10月30日、左少弁に任官。蔵人如元か?
- 986年(寛和2)6月23日、蔵人頭に補任。 7月5日、従四位下に昇叙し、蔵人頭如元。 7月16日、右近衛権中将に任官。蔵人頭如元。 7月20日、参議に補任。右近衛中将如元。 8月13日、美作権守を兼任。 10月15日、従三位に昇叙し、権中納言に転任。 11月22日、正三位に昇叙し、権中納言如元。
- 987年(寛和3)11月11日、従二位に昇叙し、権中納言如元。
- 989年(永延3)2月23日、権大納言に転任。 3月4日、皇太后宮(藤原兼家の娘、藤原詮子)大夫を兼任。 4月5日、正二位に昇叙し、権大納言・皇太后宮大夫如元。
- 990年(永祚2)6月10日、右近衛大将を兼任。
- 991年(正暦2)9月7日、内大臣に転任し、右近衛大将如元。
- 994年(正暦5)8月28日、右大臣に転任。 9月7日、右近衛大将如元。
- 995年(正暦6)4月27日、関白宣下。 4月28日、藤原氏長者宣下。 5月8日、薨去。享年43 5月25日、贈正一位太政大臣
[編集] 系譜
[編集] 略系
〈藤原北家道兼流〉
道兼 ┣━━━┳━━━┓ 兼隆 兼綱 兼信 ┃ 兼房 ┃ 宗円(宇都宮氏)