諏訪氏
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[編集] 出自
諏訪氏は代々、諏訪大社の大祝を務めてきた一族である。その血筋は神氏といい、出雲神話の神、建御中主尊(タテノミナカタヌシ)に始まるという。異説には桓武天皇を祖とするとも、清和源氏の源満快を祖とするとも称する。
軍神であることから、古くから武人の尊崇を受けていたが、信濃国一宮として朝廷からも重んじられた。神官であると同時に武士としても活躍し、かの源義家(八幡太郎義家)が出羽の清原氏討伐のため、後三年の役に介入すると、源氏軍に加わったという。大祝は祭神の神託により、身体に神が宿るとされ代々、正一位の神位を継承する。源平合戦の折に、大祝がどちらに味方するか考えていたところ、祭神が夢に現れて手に持っていた梶の葉の軍配を白旗のある方向へと振り下ろしたことから、諏訪氏は源頼朝に味方する。以来、諏訪氏及び諏訪大社を尊崇する氏子は梶の葉を家紋としたという。軍神を祭る名門として、信濃武士に対する影響力も強く諏訪氏を敵に回すことは、信濃国を敵に回しかねないという内聖外王というべき権威を有していた。北信の雄・村上氏、南信の支配者(信濃守護)の小笠原氏、木曽の木曽氏と並び信濃4大勢力の一翼を担い、これら4家を指して世に信濃の四大将といった。
[編集] 鎌倉時代
鎌倉時代の当初は幕府御家人だった諏訪氏も幕府の実権を握った北条得宗家の被官となり、全国に諏訪神社が建立されることとなった。幕府滅亡後の1335年には、諏訪頼重・諏訪時継が北条氏の残党が北条時行を奉じて挙兵した中先代の乱に加担するなどした。
[編集] 南北朝時代
南北朝時代の頃から武力を持つようになり、諏訪円忠は後醍醐天皇の建武の新政で雑訴決断所の成員を務め、建武政権から離反した足利尊氏に従い足利幕府(室町幕府)の評定衆や引付衆などを務め信濃国に住する将軍直属の奉公衆としても活躍した。
[編集] 室町時代
室町時代には一族で抗争が起こり、嫡流の「惣領家」と祭祀を司る「大祝家」とに分裂した。戦国時代に入ると中興の名君・諏訪頼満の時代に南信濃屈指の大身となり、大祝家を滅ぼし惣領家が大祝をも務め祭政一致の下、武力と権威を強めていった。諏訪郡を巡って甲斐国武田氏と争い、1539年に頼満が死去すると武田氏の侵攻が激しくなり、1542年、頼満の孫・諏訪頼重が武田信玄の攻撃に敗れて降伏し、自害することで大名としての諏訪氏は滅亡した。以後は傍系の一族が武田氏に仕えた。
[編集] 安土桃山時代・江戸時代
頼重の従兄弟に当たる諏訪頼忠は、武田氏滅亡と織田信長の横死(本能寺の変)を経た1582年、徳川家康に仕えて大名として復権し、諏訪氏を再興している。頼忠の息子諏訪頼水が1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでの功によって高島藩に封じられた。江戸時代には大名家と大祝家とに分かれ隆盛し、大名家は明治維新後、子爵に叙された。
[編集] 系譜
凡例 太線は実子、細線・二重線は養子
(鎌倉時代、得宗被官)
信綱 ┃ 盛重 ┃ 盛経(真性) ┃ 宗経(直性) ┃ 盛高
(南北朝時代以降)
盛重(盛経の父とは別人) ┃ 頼重 ┃ 時継 ┣━━━┳━━━┓ 信嗣 継宗 頼継 ┃ 直頼 ┃ 信有 ┃ 有継 ┣━━━┓ 信満 頼満 ┃ ┣━━━┓ 政満 継満 頼長 ┃ 頼満 ┣━━━━━━━┓ 頼隆 満隣 ┣━━━┓ ┣━━━┓ 頼重 頼高 頼忠 頼豊 ┏━━━╋━━━┳━━━┓ 頼水 頼定 頼雄 頼広(大祝家) ┏━━━┻━━━━━━━┓ 忠恒 頼郷 ┣━━━┳━━━┓ ┃ 忠晴 頼蔭 頼久 頼常 ┃ ┃ 忠虎 頼篤 ┠───┐ ┃ 忠尋 忠林 忠林 ┃ 忠厚 ┃ 忠粛 ┃ 忠恕 ┏━━━┫ 忠誠 頼威 ∥ ┃ 忠礼 忠礼