護送船団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
護送船団(ごそうせんだん)または護衛船団(ごえいせんだん)とは、軍艦・航空機や武装船艇などに護衛されて航行する輸送船や商船の船団のことである。敵勢力からの妨害を排除し、味方勢力による海上輸送の維持を目的としている。戦時下において通商破壊に対抗するために生み出された戦法である。
大量輸送を確保するためには速力の異なる多くの船を船団として航行させる必要があり、落伍を防ぐためには最も速力の劣る船に合わせて航行しなければならない。このことから比喩的に、最も資金力の劣る金融機関にあわせた日本の財務省における金融行政指針についても意味するようになっている。
目次 |
[編集] 歴史
海軍の成立にまで遡ることができる古い戦術である。幾多の戦争においても行われてきたが、特に大きな注目を浴びるようになったのは、第一次世界大戦以降である。
[編集] 第一次世界大戦
第一次世界大戦において、ドイツ海軍はUボートを利用し、イギリスを始めとする連合国に対し、通商破壊を行った。連合国の海軍は、これに対抗し、商船の独行を中止し、船団を組み、軍艦の護衛を受け、Uボートの攻撃を避けるようになった。
[編集] 第二次世界大戦(大西洋)
第二次世界大戦においても、ドイツ海軍はUボートや航空機、場合によっては戦艦を含む水上艦艇によって、連合国に対し通商破壊を行った。これに対し、連合国は再び船団を組み、海軍による護衛を受けるようになった。船団護衛部隊には、駆逐艦やコルベットなどの対潜艦艇だけではなく、広範囲の対潜哨戒や船団防空を可能にする護衛空母が配備される場合もあった。
[編集] 第二次世界大戦(太平洋)
太平洋方面においては、日本軍による通商破壊活動は不活発であったが、アメリカ軍による日本に対する通商破壊活動は戦争後期以降、極めて活発であったために、日本軍が護衛船団を組織している。
戦争前半においては、アメリカ軍潜水艦は魚雷の不調もあり、通商破壊活動をあまり行わなかった。しかし、ガトー級潜水艦の大量就役や、魚雷の改善により、戦争後期には航空機によるものも含めて、通商破壊活動を行っている。日本軍は、戦争前期には商船・輸送船などの喪失が極めて少なかったことから、上陸作戦時を除き、護衛船団はほとんど組織していない。しかし、商船などの被害が急増するにつれ、護衛船団の必要性を認識し、昭和18年11月15日に海軍内に海上護衛総司令部(通称または略称:海上護衛総隊・海護総隊)を組織し、通商活動におけるものも含む船団護衛に 乗り出している。
しかし、日本の船団護衛は、駆逐艦・海防艦をはじめとする護衛艦艇の絶対数の不足、対潜作戦能力の不足、そしてアメリカ軍の攻撃力の大きさのために失敗に終わっている。
[編集] 金融用語
「20世紀後半の日本の旧大蔵省において取られた銀行業界に対する金融安定化・産業保護政策」に対して「護送船団方式」と呼ばれることがある。これは、「銀行の倒産を防ぎ、安定経営を行わせるために、他産業に比較し、多くの行政指導を行っている様子」の比喩である。経営力が低下した銀行に対し、他行との合併を強力に指導したため、戦後の日本において金融機関の経営破綻は皆無であった。銀行経営陣にとっても、経営の自由を制約される代わりに責任追及から逃れられるために好都合なシステムであった。ただし、この方式は官民癒着を生んだこと、「金融自由化」の進行に伴い資本主義経済になじまない部分があることから、金融庁が設置され、指導行政は緩和された。このような様子から、「国が実質的に地方経済を経営していた」と見る論者もおり、この行政指導による「護送船団方式」を指して、「日本は世界で最も成功した社会主義国家だ」等という揶揄が外資やエコノミストによってなされる場合がしばしばある。
[編集] 護送船団方式の起源
世界恐慌時に、デフレ不況が吹き荒れ、世界中の人々は塗炭の苦しみを味わった。特に第二次世界大戦の最大の原因ともなり、6000万人の命が失われ、経済損失は天文学的数字に登った。そのためこのような惨禍を二度と引き起こさないように、市場経済を否定的に捉え、護送船団方式という経済統制の方式を編み出した。
[編集] 新・護送船団方式
護送船団方式を取り払い、BIS基準に厳格な適用が1998年から始まったが、当然の帰結としてデフレ不況に突入し、再び世界恐慌に似た苦しみが吹き荒れた。2003年のりそな銀行救済を契機に、「新・護送船団方式」が構築され、金融は安定化に向かい始めた。