近藤秀用
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近藤 秀用(こんどう ひでもち、天文16年(1547年) - 寛永8年2月6日(1631年3月8日))は、戦国時代の武将。江戸時代前期の大名で、遠江国井伊谷藩の藩主。近藤康用の子。通称、勘助。登助。平右衛門。官位は従五位下、石見守。
[編集] 経歴
父の康用は永禄11年(1568年)末、徳川家康の遠州攻め入りで今川氏方を離反した井伊谷三人衆の一人として知られる。ただ、年齢の他にも、戦傷を負い歩行困難であった父に代わって秀用が戦役を担っていた。秀用は姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小田原征伐などでいずれも軍功を挙げ、特に小田原征伐ではその活躍を豊臣秀吉からも賞賛された。
やがて、徳川四天王で有名な井伊直政が台頭してくると、家康の下命で寄騎として直政の片腕となっていた。ところが、直政の冷酷な性格に嫌気がさして徳川家康の直臣に戻りたいと思っていた。そこで、秀用はそれまでの功績から、家康に直臣として取り立ててくれるように嘆願したが、直政に徹底してそれを妨害された。遂には暗殺まで謀られたため、秀用は命の危険から逃れるために出奔して伊勢国に逃亡した。
慶長7年(1602年)、直政が死去すると、池田輝政の仲介により家康に召しだされて、上野国青柳に5000石の所領を与えられた。慶長19年(1614年)には相模国内で1万石を加増され、小田原城の城番となる。大坂の陣にも参陣して武功を挙げ、元和5年(1619年)に遠州井伊谷に1万5000石の大名として井伊谷藩を立藩した。元和7年(1621年)には2000石の加増を受けている。
しかし秀用は子の季用を始めとする一族で所領を細分化したため、井伊谷藩は短期間で終焉し、その後、近藤氏は旗本として徳川氏に仕えることとなった。
なお、その後の秀用は寛永2年(1625年)に石見守に叙任している。寛永8年(1631年)2月6日、85歳で死去。墓所:東京都文京区本郷の大安寺。
[編集] 参考文献・関連項目
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