近鉄奈良線列車暴走追突事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近鉄奈良線列車暴走追突事故(きんてつならせんれっしゃぼうそうついとつじこ)では、1948年(昭和23年)3月31日に、近畿日本鉄道(近鉄)奈良線河内花園駅付近で発生した列車衝突事故について記す。衝突が起こった地点から花園事故、また、事故の原因となったブレーキ故障が生駒トンネル内で発生(発覚)したことから生駒トンネルノーブレーキ事故とも呼ばれる。
目次 |
[編集] 事故概要
近鉄奈良線の奈良発上本町行き急行電車(デボ1形他3両編成)が、生駒トンネルを走行中にブレーキが効かなくなり、トンネル内からの下り坂を加速・暴走し、70~80km/hで河内花園駅を発車しかけた前方の普通電車に7時51分または52分頃追突。木造車体が大破し、特に一両目は原型もとどめていないほどだった。この事故により49名が死亡、282名が負傷した。
[編集] 原因
原因は戦中戦後の酷使の結果、老朽状態で放置されていたブレーキホースの破損とされる。事故電車は、空気ブレーキとしては最も原始的な直通ブレーキ装備車であったため、ホースが破損するとまったくブレーキが効かなくなった。このため、このブレーキ方式による3両編成以上の連結運転は、配管の改造(3本管式という)を行った事例以外は行われなくなった。
また集電装置のパンタグラフが華奢なもので、暴走によって架線から外れてしまい、マスコンを逆ノッチに入れて電動機を逆回転させ、停車させる非常制動(逆相運転)が使用できなかったことも、被害を大きくした。(以前、阪急三国駅において同様のケースの事故が起こり、その際に逆ノッチを使用して電車を停車させことがあった。この車両は旧型ではある手動加速制御であるが、このことは同じ手法で逆ノッチ使用により停車することが出来うる制御機器であった)。
その他、戦中に徴兵された年配の職員がまだ職場復帰しておらず、21歳という経験不足の運転士が列車を運転しており、事故車両が当日の奈良行き列車として使用された際に額田駅で、そして事故直前にも生駒駅でオーバーランを起こしたにも関わらず、大丈夫と判断して運転を継続させたことも事故発生原因の一つとされている。
なおこの当時は、近鉄のみならず各社で整備不良・資材不足による事故が頻発しており、特に生駒トンネルではこの事故以前に、終戦後2回も以下のような大事故が発生していた。
- 1946年(昭和21年)4月16日 生駒トンネルで列車火災事故、28名が死亡、75名が負傷。
- 1947年(昭和22年)8月19日 生駒トンネルを通過中の列車が、モーター過熱により発火、約40名が負傷した。
[編集] 事故直前の対応
事故当時、電車はどの車両もほぼ満員の状態であり、それでいて事故の規模の割には死傷者が少なかったのは、生駒トンネルを抜けた時点で運転士が異常に気づき、この先に連続下り勾配が控えていたことが周知されていたこと。更に乗客の中に警察官や国鉄職員、近鉄社員がおり(協力して手動ブレーキをかける、空気抵抗を増して減速させようと窓を開ける、など)をさせたからだといわれている。また、事故発生地点手前の瓢箪山駅では、急行が停車するはずの石切駅を通過したという通報を受けたため、先行して走り同駅を通過する予定であった準急電車を急遽待避線に入れ、ポイントを切り替えたところで問題の電車が猛スピードで通過して行ったという話も残っている。事故を起こした電車は、瓢箪山駅が下り勾配の最終点で、それ以降は平坦線となる事から、瓢箪山駅を通過した頃が最も速度を出していたと思われるため(100km/h程度)、もし準急に衝突していればもっと死傷者数は増えたかもしれないともいわれている。
以上の理由により、未曾有の大惨事にもかかわらず、乗客・乗員が一体となって犠牲を最小限に食い止めたという、ある種の「美談」として語られることがある。
[編集] その他
トンネル周辺で発生した上記の事故に加え、開削時には落盤事故が起こって死者を出したことがある。なお、その後近畿日本鉄道東大阪線となる路線の工事でも新生駒トンネルの上部崩落事故を起こし、人家を破損していることから地盤の脆弱さも指摘されている。加えて大阪側の石切駅付近にある石切神社周辺は、祈祷師などが集積している非常に稀有な地域であるため、とかく生駒トンネルは心霊スポットとして語られることがある。
[編集] 関連項目
- 鉄道事故
- 肥薩線列車退行事故(1945年8月22日、同様に戦後の輸送状況を物語る事故として挙げられる)
- 近鉄大阪線列車衝突事故(1971年10月25日)