遠藤慶隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
遠藤 慶隆(えんどう よしたか、1550年(天文19年) - 1632年5月10日(寛永9年3月21日))は美濃国の国人で郡上八幡城主、遠藤盛数の嫡男。弟に遠藤慶胤。子に娘(金森可重妻)、養子に遠藤慶利。妻は安藤守就娘、三木良頼娘、姉小路自綱娘。初代八幡藩主。但馬守。旦斎と号した。
また遠藤慶隆の妹が、山内一豊の妻で有名な土佐藩主正室(まつ、ちよとも言う見性院)であるとされる。
[編集] 略歴
斎藤氏に恭順し、斎藤義龍、斎藤龍興の下で織田信長と戦っていた父盛数が永禄5年(1562年)に死去したため、13歳で家督を継ぐ。義父安藤守就、養父長井道利らと共に信長に抵抗するが、稲葉山城が落ち、斎藤氏が滅亡すると、降伏。領地安堵の上で織田家に服従する。
飛騨国方面への押さえとして姉小路氏や三木氏と抗争を繰り返す。姉川の戦いでは森可成の与力衆として、また後に織田信忠の与力衆として美濃に駐屯、比叡山延暦寺焼き討ちなどに参加。さらに日根野弘就らと金森長近の与力衆となり、飛騨攻略、甲斐攻略など各地を転戦した。
本能寺の変後、美濃に封じられた織田信孝傘下として美濃の平定を行うが、羽柴秀吉と不和になった信孝と共に秀吉に対立するものの、敗北し服従する。
紀州平定、飛騨平定、小牧・長久手の戦い、九州平定と従軍するも秀吉の命により郡上八幡城主の座を失い加茂郡小原へと減封されるが、秀吉の死後、徳川家康の支援の下に西軍に属していた郡上八幡城主稲葉貞通を攻め、戦後は郡上八幡城主の座を取り戻すことに成功し、郡上八幡藩の初代藩主となる。
[編集] 伝承
郡上八幡で有名な「郡上おどり」は慶隆が士農工商の融和を図るため、盆祭りの夜に踊りを奨励したのが始まりと伝えられている。国の重要無形民俗文化財に指定。
|
|
|