那覇手
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那覇手(なはて、ナーファディー)とは、首里手、泊手と並ぶ唐手(現・空手道)の三大系統の一つである。那覇手は、主に琉球王国第一の商業街であり、貿易港もあった那覇(現・那覇市)に住む人々によって継承、発展した。
那覇の
那覇手はその土地柄から百姓(平民)の手とも言われ、士族が担い手だった首里手と対比されることもあるが、初期の那覇手は、閩人三十六姓の末裔で、久米士族の名門・
那覇手の起源ははっきりしないが、湖城流の伝承では、流祖・湖城親方が1665年頃に、中国において中国兵法を学んだ後、帰国して一族に伝授したとされる。これが事実ならば、那覇手の起源は17世紀までさかのぼることになる。他の記録でも確認できるかぎりでは、湖城流の四代目、湖城以正が中国の「イワァー(偉伯)」に師事したというのが、最も古い伝承である。イワァーは、北京王宮の武官だったとも、冊封使つきの侍従武官だったともいわれるが、詳細は不明である。このイワァーからは首里手の佐久川寛賀や松村宗棍も学んだとされる。
湖城家からは、他にも湖城以幸(1836年 - 1907年)や湖城大禎(1838年 - 1917年)、湖城以昌(1848年 - 1910年)といった唐手家が出ており、初期の那覇手は、実質的に「湖城家の手」と言っても過言ではない。那覇手では、他に真栄里蘭芳(1838年 - 1904年)や新垣世璋(1840年 - 1920年)などの唐手家がよく知られており、彼らは1866年、冊封使節のための祝賀会で、セーサンやスーパーリンペーなどの型を演武したことが記録に残っており、注目される。
新垣の弟子には、那覇手中興の祖と呼ばれる有名な東恩納寛量がおり、彼は新垣に師事した後、中国に渡り当地で中国武術の大家・ルールーコウ(劉龍公?)に学んだとされる。今日の那覇手は、湖城流と劉衛流をのぞけば、ほとんどがこの東恩納の系統であり、彼の弟子には宮城長順(剛柔流)、許田重発(東恩流)、摩文仁賢和(糸東流)などがおり、今日の日本空手界の大きな一角を担っている。
[編集] 参考文献
- 岩井作夫『古伝琉球唐手術』愛隆堂 ISBN 4750202037
- 長嶺将真『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社 ISBN 4404013493