酒井忠績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
酒井 忠績(さかい ただしげ)は、江戸時代末期の大名、老中、大老。男爵。播磨姫路藩第8代藩主。
|
||||
生誕 | 文政10年(1827年) | |||
死没 | 明治28年(1895年)11月30日 | |||
別名 | 勘解由 | |||
諡号 | 閑亭、閑斎 | |||
藩 | 播磨姫路藩藩主 | |||
父母 | 父:酒井忠誨、養父:酒井忠顕 | |||
兄弟 | 酒井忠績、酒井忠惇 | |||
妻 | 正室:本多助賢の娘 | |||
子 | 養嗣子:酒井忠惇 |
[編集] 生涯
忠績は分家旗本5000石の酒井忠誨の長男であるが、姫路藩主酒井忠顕に子がないため、養子となり相続する。
文久2年(1862年)、忠績は幕命により上洛した。京都守衛と京都所司代臨時代行の特命を帯びての入京であった。安政の大獄期に京都所司代に就任した酒井忠義(小浜藩主)は、井伊直弼暗殺後も引き続きその職にあり、罷免を朝廷から要求されていた。幕府は忠義を罷免し、後任として大坂城代松平宗秀を内定したが、宗秀も安政の大獄当時は寺社奉行の任にあり、しかも井伊直弼の信任が非常に厚かったため、朝廷は宗秀の所司代就任にも内諾を与えなかった。このため所司代は空席という、開幕以来の異常な事態となっていた。このため、9月末に牧野忠恭が後任の京都所司代として正式に承認されるまで4ヶ月間その任にあたった。
京都市中警備の功績により、文久3年(1863年)、老中首座となる。老中就任後は兵庫開港をめぐって朝廷対策に奔走する一方、年末に家茂の上洛が決定すると、御三家の水戸黄門、忍侯の松平下総守とともに江戸留守居役を命じられる。ちょうど一年後に老中を退いたが、8ヶ月後には大老となった。そして第2次長州征伐の事後処理、幕府軍の西洋式軍制の導入など、幕政改革に尽力した。
隠居後は実弟酒井忠惇に家督を譲る。
[編集] 年譜
- 1827年(文政10年) :生誕
- 1860年(万延元年) :忠顕、没(10月14日)。12月9日、遺領を継ぐ。
- 1862年(文久2年) :忠績上京し(5月)、京都所司代臨時代行(~9月末まで)。
- 1863年(文久3年) :老中となり(6月18日)、直ちに上座とされる。家茂上洛(12月28日)。
- 1864年(元治元年) :老中免職(6月18日)。
- 1865年(元治2年) :大老(2月1日)
- 1865年(慶応元年) :大老免職(11月12日)
- 1867年(慶応3年) :隠居(2月28日)。
- 1889年(明治21年) :男爵(3月2日)
- 1895年(明治27年) :死去、享年69
[編集] 官位位階
|
|
|