酒井忠惇
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酒井 忠惇(さかい ただとう、天保10年7月28日(1839年9月5日) - 明治40年(1907年)11月10日)は、江戸時代末期の大名、老中。播磨姫路藩酒井家の第9代目藩主。明治時代の華族。官位は河内守ついで雅楽頭。
[編集] 生涯
姫路藩分家幕臣五千石御小姓組番頭酒井安房守忠誨の四男として江戸に生まれる。母は家女。通称は幸五郎(または孝五郎とも)、勘解由。最初の実名は忠優。文久元年(1861年)12月幕臣五千五百石寄合席酒井求次郎忠夏の養子となり、文久3年(1863年)10月4日家督を相続、同年12月15日御使番に任命され、翌元治元年(1864年)6月28日に御使番在任のまま、箱根関所の見廻りを命じられ、7月2日箱根へ出発し、8月2日江戸に戻る。同年8月6日実兄で姫路藩主の酒井忠績の養子となり、同13日実名を忠優とし、同19日通称を勘解由と改める。同年10月27日従五位下河内守に叙任、同日従四位下に叙される。慶応元年(1865年)4月15日溜間詰に列せられ、同年5月15日侍従に任じられる。
慶応3年(1867年)2月28日兄忠績の隠居により姫路藩主となり、実名を忠惇に改める。同年3月2日雅楽頭に任じられ、同年12月30日老中に任命される。慶応4年(1868年)2月5日老中を罷免され、同年3月7日官位を剥奪され、入京を禁止される。同年5月20日隠居謹慎を命じられ、明治元年(1868年)12月12日駿府の徳川亀之助へ預けとなり、明治2年(1869年)9月28日蟄居預かりを解かれる。明治4年(1871年)2月3日実兄忠績とともに静岡藩士族酒井録四郎忠恕(忠績の実弟で、忠惇の実兄)方へ終身同居することを許される。
明治5年(1872年)1月6日従五位に叙される。明治9年(1876年)4月12日宗家酒井忠邦方へ復籍する。明治13年(1880年)5月18日従四位に叙され、同年11月18日分家し、終身華族に列せられる。明治22年(1889年)5月11日永世華族に列せられ、男爵を授与される。同年6月17日東京上野東照宮副祀官に任命される。同年6月26日正四位に叙される。明治23年(1890年)12月27日上野東照宮副祀官を辞職し、明治26年(1893年)10月21日久能山東照宮宮司に任命され、明治29年(1896年)1月28日まで勤める。
明治32年(1899年)6月20日従三位、明治40年(1907年)11月11日正三位に叙され、同日69歳で死去。法名は慈徳院義徹忠惇源信。葬地は東京巣鴨の染井墓地。
[編集] 参考文献
- 橋本政次「姫路城史」下(1952同刊行会)
- 杉本勝二郎「国乃礎」(1893杉本嘉次郎)
- 「播磨姫路酒井家譜」東京大学史料編纂所蔵
- 「姫路市史」10 史料編近世1(1986同市)所収。
- 「兵庫県史」史料編近世1(1989同県)抄録。
- 「姫陽秘鑑」姫路市立城郭研究室蔵
- 「姫路市史資料叢書」2(2003同市史編纂室)
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