野村貴仁
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野村 貴仁(のむら たかひと、1969年1月10日-)はオリックス・ブルーウェーブ、読売ジャイアンツ、ミルウォーキー・ブリュワーズ、日本ハムファイターズに所属していた投手。左投げ左打ち。2000年から2001年までの登録名は野村 空生(-たかき)。
[編集] 来歴・人物
高知県高岡高宇佐分校(1999年閉校)から三菱重工三原を経て、1990年ドラフト3位でオリックスに入団。1年目から中継ぎとして活躍。1995年の優勝時は37試合に登板し防御率0.98という驚異的高数値をマーク。左腕から繰り出す速球に威力があった。1996年、1997年には2年連続で50試合以上登板。
1998年に木田優夫とのトレードで巨人に入団するものの、結果を残せず苦しんでいた。2000年のシーズン前には貴仁から空生に改名した。2001年に40試合に登板するも、自由契約(同年6月26日中日戦で中継ぎで登板し札幌ドーム初の公式戦における勝利投手にもなっている)。
そして、ブリュワーズに入団。2002年のシーズンは21試合に登板するも結果を残せず、マイナー降格などもあり、そのシーズンのオフに自由契約。
2003年に日本ハムに入団するも、結果は残らず、自由契約となった。2004年は台湾の誠泰コブラズに所属。
現役引退後は地元である高知県に戻る。
2006年10月31日、高知市内で覚醒剤取締法違反の疑いで逮捕。薬物は現役時代から使用していたという。逮捕されたことに対しかつてオリックス時代にバッテリーを組んでいた藤田浩雅は「バカだなあ」とコメントしていた。
[編集] エピソード
- オリックス入団発表にオールバックで登場して球団関係者やマスコミを仰天させた。その年パンチ佐藤がパンチパーマで売り出して人気者になったことから、ルーキー年に「オールバック君」として売り出す計画もあった。
- 仰木監督の教え子の多く(野茂英雄・イチロー・長谷川滋利・田口壮ら。野村本人にも当てはまる)がメジャーリーグに旅立つことについて、「別に仰木監督だからではなくて、(目立たない)パ・リーグだからじゃないですか。」と答えた。
- 雑誌の取材で「俺は清原和博を格闘技のリングに上がってきたらボコボコに出来る」と発言した。
- かつて交際していた飲食店勤務の東京都足立区の女性(33歳・2005年)に対し、別れたあと数年に渡って「会いたい」「店に行くよ」と執拗にメールを送信。
女性のもとには、多いときには1日50通ものメールが届いていたという。耐えかねた女性が綾瀬署に相談。元投手を呼び出し、口頭で「もうしないで下さい」と警告した。[要出典]