長州征討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長州征討(ちょうしゅうせいとう)とは、江戸時代後期に江戸幕府と長州藩の間で2次に渡って行われた戦いである。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、征長の役、長州戦争などとも呼ばれる。第二次の長州征討は幕府軍が4方から攻めたため、長州側では四境戦争と呼ばれる。
目次 |
[編集] 第一次
長州藩は尊皇攘夷、公武合体の思想を掲げて京都の政局に関わっていたが、1863年(文久3年)に薩摩藩と会津藩が結託して行われたクーデターである八月十八日の政変により京より追放される。1864年(元治元年)には藩主父子の赦免などを求めて京へ軍事的に進行する禁門の変が起こると、朝廷は長州藩が京都御所へ向かって発砲を行ったことを理由に長州を朝敵とし、幕府に対して長州征討の勅命を下す。幕府は前尾張藩主徳川慶勝を総督に広島へ36藩15万の兵を集結させて長州へ進軍させる。 一方、長州藩内部では下関戦争の後に藩論が分裂し、保守派(俗論派)が政権を握る。征長総督参謀の西郷吉之助は、禁門の変の責任者である三家老(国司信濃・益田右衛門介・福原越後)の切腹、三条実美ら五卿の他藩への移転、山口城の破却を撤兵の条件として伝え、藩庁はこれに従い恭順を決定。幕府側はこの処置に不満であったが、12月には総督により撤兵令が発せられる。
[編集] 第二次(四境戦争)
1865年(慶応元年)、長州藩では松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒するクーデターを起し、倒幕派政権を成立させる。高杉らは西洋式軍制を採用した民兵である奇兵隊や長州藩諸隊を整備し、大村益次郎を登用してのゲベール銃やミニエー銃など新式兵器の配備、戦術の転換など軍事改革を行う。14代将軍徳川家茂は大坂城へ入り再び長州征討を決定する。薩摩藩は土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩長盟約で密かに長州と結びついており出兵を拒否する。幕府は大目付永井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定させ、老中小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行うが、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行う。
翌1866年6月7日に幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まり、13日には芸州口、小瀬川口、16日には石州口、17日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。長州側は山口の藩政府の合議制により作戦が指揮された。
大島口では幕府海軍、四国各藩の兵と高杉率いる艦隊が戦い、奇襲戦法により大島の奪還を果たす。
芸州口では洋式幕府歩兵隊や紀州藩兵との戦闘が行われる。
石州口では大村が指揮し(指揮役は清末藩主毛利元純)、中立的立場を取った津和野藩を通過して浜田藩へ侵攻し、18日に浜田城を陥落させる。
小倉口では総督小笠原長行の指揮下、九州諸藩との戦闘(小倉戦争)が関門海峡をはさんで数度行われ、一時肥後藩が互角の戦いをの見せるものの、小笠原の指揮よろしきを得ず、諸藩は随時撤兵。将軍家茂の死去の報を受けた小笠原も戦線を離脱。孤立した小倉藩は8月1日城に火を放ち香春に退却。事実上幕府軍の敗北に終わる。徳川慶喜の意を受け、勝海舟により宮島で停戦が行われた。
[編集] 関連
[編集] 関連書
- 野口武彦 『長州戦争』幕府瓦解への岐路 中央公論新社 ISBN 4-12-101840-0
- 久住真也 『長州戦争と徳川将軍』幕末期畿内の政治空間 岩田書院 ISBN 4872944054