雑草
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雑草(ざっそう)とは、人間の生活範囲に、人間の意図に反して繁殖する植物のことである。
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[編集] 概要
特定の分類群を示すものではないが、人間の活動によって強く攪乱を受けた空間を生息場所とする点で、共通の生態学的特性を共有することが多い。転じて、重視されないがたくましい存在として、比喩に用いられる。
これらは、分類上は多種多様な植物からなる群であるが、繁茂状況によってはこれらに付随して生息する動物群も存在し、昆虫やそれらを餌にするクモなどの節足動物・ネズミ等の小型哺乳類・小型の鳥といった小動物が生活する格好の場所を提供する。
なお、日本ではワカメ・コンブ・モズクなどの海藻については食用とするため雑草と呼ぶことはないが、海藻を食べる文化の少ない欧米では、これらの海藻も海の雑草(Seaweeds)と一括りにして呼び習わしている。
人間にとって有用でない、あるいは一般には取るに足らない存在と捉えられていることから、日本語では種の名称にはある種の蔑みを含んだものが用いられることもある。例えば、動物の名前を冠すもの(カラスウリ、カラスノエンドウ、ヘビイチゴ、イヌガラシ)や、迷惑感を示すもの(ワルナスビ)などがある。そのほかハキダメギク(掃溜菊)やヘクソカズラ(屁糞蔓)といった有難からぬ名前を付けられた種もある。
[編集] 雑草の生活場所
雑草といわれるのは、以下のようなものである。
- 畑、果樹園、庭園、芝生など、人間がある特定の植物の育成を目指している場所へ、人間の意図に反して勝手に侵入し、成長、繁殖する植物。繁殖が激しく、ねらいとする植物の育成に邪魔になる場合、集中的に駆除の対象になる。
また、水田の場合、イネの成長の間は雑草は駆除の対象となるが、稲刈りから次の春までは、雑草は比較的放置される。ここには水田雑草とよばれる特殊な植物群が存在する。
[編集] 雑草の環境の特性
雑草という名が示すように、これらの植物は、特に何の取り柄もないものと見なされがちであるが、実はそうではない。これらの植物の成育する環境は、きわめて特殊なものである。
これらの環境に共通する特徴は、きわめて人為的撹乱を激しく受ける場所だということである。運動場や道路脇では、まず、強い日照、水不足、土壌の少なさと乏しい肥料分、埃や煤煙、それに踏みつけがあり、その上に少なくとも数か月ごとに草刈りが行われる。畑や庭園では、水や土壌などの点では植物の生活に適しているが、土壌は定期的に撹拌され、草刈りなどの手入れはもっと頻繁に行われる。したがって、このような環境で生活を営み続けられるのは、その生活に強く適応した植物であり、雑草の多くは、人家周辺でのみ生活しているものである。
雑草という名が示すように、木本では、まずこの生活は維持できない。世代時間が長すぎるため、また、材に資源を投入しても刈り入れによって無駄になるからである。唯一、ササ類などにそれに近い生活を送るものがあるのみである。
雑草は、特定の分類群をさす言葉ではなく、様々な仲間の植物が含まれるが、シダ植物で雑草として出現するものはきわめて少ない。裸子植物は皆無である(木本ばかりなので当然だが)。被子植物でも、イネ科・キク科のものがかなりの部分を占める。これらは、被子植物の中でも、進化の進んだグループと見られている。
[編集] 雑草の生活能力
雑草のすむ過酷な生活環境を乗り切るには、特殊な能力が必要である。それぞれの種は、それなりの方法で乗り切る仕組みをもっている。
代表的なのは、次のような能力である。
- 強い繁殖力。チガヤ、セイタカアワダチソウなどは地下茎をもち、地下を広がりながら無性生殖で個体数を増やすだけでなく、種子でも繁殖する。それ以外にも、多くの雑草は小さな種子や栄養繁殖子を多数つける。
- 一世代の時間や成長に融通が利き、条件が悪ければ、小さな個体のまま、花をつけ、種子を作るものがある。ホウキギクやヒメムカシヨモギは普通に育てば1mを越えるが、10cmにも満たない株が花をつけることがある。これは、カラスムギやイヌムギでもみられる。
- 田畑など耕地に発生するものでは、作物に擬態するものがある。タイヌビエは、水田でイネの間に生え、イネによく似た株の形を示し、イネと同じくらいの背の高さで、同じ頃に結実し、小さな種子を稲刈りの前に散布して、駆除の目を潜りぬけ、水田の管理に沿って世代を繰り返す。苗のころには、タイヌビエはイネと見分けるのが難しいが、イネにはある葉の付け根の薄い膜がないので、熟練した農民は識別する。イヌビエの仲間ではヒメタイヌビエがイネに擬態するが、タイヌビエほど顕著ではない。また、ライムギやエンバクのように、擬態を推し進めているうちに、本物の穀物になったものもいる。こういった栽培化された雑草は、劣悪な環境の田畑で生息しているうちに、環境に適応できなくなって絶えた本来の作物に取って代わり、有用性に気付いた人間によって利用されるようになったと考えられている。