馬加康胤
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馬加 康胤(まくわり やすたね・千葉 康胤(ちば やすたね)、応永5年(1398年)? - 康正2年11月1日(1456年11月28日))は、室町時代の武将。本姓は平氏。千葉介・千葉満胤の子。享徳の乱に乗じて、千葉氏宗家を攻め滅ばしてその19代当主となる。下総国千葉郷馬加村(現在の千葉県千葉市花見川区幕張町)に居を構えたことから「馬加」と称した。
享徳の乱において、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏が対立する。その結果、上杉氏を支持する京都の室町幕府の追討を受けた成氏は鎌倉を追われて下総国古河城(現在の茨城県古河市)に入り、「古河公方」と称した。
そのため、下総国の守護であった千葉氏の元には、幕府と成氏の双方から支援の依頼が寄せられるようになる。千葉氏宗家当主である千葉胤直は幕府の依頼を受けて成氏討伐に乗り出すが、叔父である康胤は成氏支援を主張して対立する。これに筆頭重臣の地位を巡る原氏と円城寺氏の対立が絡んで家中は二分される事になった。
そこで1455年(享徳4年)、康胤は原胤房とともに、千葉胤直・胤宣父子を千葉城(亥鼻城)(現在の千葉県千葉市中央区亥鼻)に攻め、千田庄(現在の千葉県香取郡多古町付近)へ追いやった。その後、千田庄の多古城・島城にたてこもる胤直父子や円城寺尚任を攻め滅ぼして、仏に仕える身にありながら千葉氏第19代当主千葉 康胤(ちば やすたね)を名乗る。
これに対して、室町幕府の将軍足利義政は、この乱を治めるため歌人で千葉氏の一族でもある美濃国郡上郡篠脇城主東常縁を派遣している。康胤の最期については、上総国八幡(現在の千葉県市原市八幡町)の村田川で常縁に討たれたという伝承はあるが不明である。