高橋英辰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高橋 英辰(たかはし ひでとき、1916年4月11日 - 2000年2月5日)は愛知県出身のサッカー選手、サッカー指導者。サッカー日本代表監督を務めた。
旧制刈谷中学校(現・愛知県立刈谷高等学校)から早稲田高等学院を経て早稲田大学に入学。1941年には日立製作所に入社し、同年の明治神宮競技大会において実業団の部で準優勝を飾った。
1955年には日立で現役活動を続けるかたわら、母校である早稲田大学の監督に就任。八重樫茂生、川淵三郎らを擁して関東大学リーグで2連覇を成し遂げた。
1957年には日本代表監督となり、中国遠征で代表を率いた(ただしこの期間に中国代表などとの国際Aマッチは無いため、代表監督とは見なさないとする意見もある)。1958年に選手としての活動を終えると、1959年には日本で初めて編成されたユース代表チームの監督に就任した。マレーシアで開催された第1回アジアユース大会では杉山隆一らを率いて、3位という当時としては予想以上の好成績を収めた。
1960年、竹腰重丸の後を継いで再び日本代表監督に就任。ワールドカップチリ大会予選を戦いつつ、東京オリンピックに向けた強化活動としてヨーロッパ遠征などを行った(この時、デットマール・クラマーと出会った)。しかし、指導者の若返りを図る日本サッカー協会の方針により、1962年には長沼健に代表監督の職を譲ることになった。
1970年には当時日本サッカーリーグ(JSL)で低迷していた古巣の日立製作所本社サッカー部に請われ、監督に就任。サッカー部の体制を改革し、1972年には念願のJSL優勝を遂げた。同年と1975年には天皇杯を制覇するなど、日立サッカー部の黄金期を築くことになった。
1977年に日立を定年退職した後はJSLの総務主事に就任し、森健兒や木之本興三といった後にJリーグ設立に携わることになる人材が比較的自由に動く場を作った。自らはもっぱら実業団チームの指導者レベル向上など、地味な役割を担った。1986年に退任後も、Jリーグの初代技術委員長を務めるなど、生涯にわたって技術指導を続けた。
2000年、肺炎で死去。
|
|
|
|
カテゴリ: サッカー選手に関するスタブ項目 | 1916年生 | 2000年没 | 日本のサッカー選手 | 日立製作所サッカー部の選手 | 日本のサッカー指導者 | サッカー日本代表監督