高芙蓉
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高芙蓉(こうふよう、享保7年(1722年) - 天明4年4月24日(1784年))は、江戸時代中期の儒学者、篆刻家、画家である。日本における印章制度を確立して印聖と讚えられる。
苗字の高は出身地の甲州高梨郡に因んで自ら名乗ったもので、本来は大嶋である。名は孟彪、字を孺皮、号は芙蓉、その他に中岳画史、氷壑山人、富岻山房などと号した。本姓が源であることから、源孟彪と称することもあった。俗称を大嶋逸記、近藤斎宮と称した。
[編集] 生涯
祖父は水戸光圀に庫蔵として仕えたが、なんらかの事件に巻き込まれ職を免ぜられ甲斐国高梨郡に移った。父の大嶋尤軒は医師として徳本氏に仕えたが、芙蓉は医業を好まず若いうちに京都に遊歴した。
京都では坊城菅公に従い典故朝儀を習った。書を愛し、真蹟、法帖、碑版などを蒐集し、先人の書について研鑽を積んだ。一方で学問にも励み、独学で中国古典を読破。経学・漢学など幅広く吸収した。この頃、近藤齋宮と称しており衣棚下立売に住み、売講や個人教授などをして生計を立てていたらしい。
芙蓉は柳沢淇園や木村蒹葭堂、売茶翁など多くの文人墨客と交流した。80歳の売茶翁に印三顆を贈っている。池大雅、韓天寿とは終生の友であり、三人は連れ立って白山・立山を経て富士山を巡る旅をしている。この旅を記念して三人それぞれが「三岳道者」を号したという。
書画を能くし、特に富士山を筆写した「百芙蓉図」は有名である。煎茶道にも造形が深く、「キビシヤウ」(急焼)を案出したとされる。銅器や玉材、銭貨といった器物の鑑賞家でもあった。
このように多芸博学にして風雅を好んだが、特に篆刻にその才能が開花した。当時、篆刻といえば江戸において榊原篁洲、池永道雲、細井広沢らが名を成していたが、いずれも帰化僧の東皐心越の流れを汲んでいた。この流派は明末清初に中国で隆盛した「飛鴻堂」一派に近く「今体派」と呼ばれる。芙蓉は木村蒹葭堂が入手した明代の篆刻家蘇宣の『蘚氏印略』4巻を範として模刻したり、同じく明の甘暘の『印正』に注解して刊行するなど中国歴代の印譜や文献を渉猟して秦・漢にまで遡り淵源を窮め、諸流派を探求しついに日本における印章制度を確立した。皆川淇園や柴野栗山らは芙蓉を印章学の大成者と見做して「印聖」と讚えている。漢詩で有名な葛子琴は芙蓉の高弟としても知られ「印賢」と評されている。また弟子の曽谷学川は師の作風とそっくりだったと伝えられる。その他、前川虚舟・菅周監・中江杜澂・杜俊民などの門弟がおり、この一派を「古体派」と呼んだ。
芙蓉は青木木米の師としても知られる。祇園の芙蓉宅付近に住んでいた木米は芙蓉の居宅に遊ぶうちに、書画や篆刻などを学んだようである。この関係は木米の少年期から18歳になるまで続いた。また山本緑陰にも薫陶を授けている。
天明4年、常陸宍戸藩の松平頼救侯の招聘に応じて、妻子を連れ立って江戸に赴く。常陸宍戸藩はかつて祖父が仕えた水戸藩の分封であり、芙蓉はこれに縁を感じたためであったとされる。しかし、江戸目白台の藩邸に到着するとすぐに病(傷寒)を得て、数日後に歿した。享年63。小石川無量院に葬られる。
[編集] 著述
- 『芙蓉軒私印譜』
- 『篆原』一巻
- 『漢篆千字文』四巻
- 『古今公私印記』一巻
- 『采眞印譜』二巻
- 『古今印選』三巻
- 『印章例考』六巻
- 『捃印叢』三巻
- 『游襄日記』六巻
- 『芙蓉編』三巻
- 『中嶽稿』四巻
以下は門弟の編集による出版物
- 『菡萏居印譜』
- 『芙蓉山房私印譜』
- 『芙蓉先生遺篆』
[編集] 参考文献
- 中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』新潮社、2000年、ISBN 4103155213。
- 沙孟海『篆刻の歴史と発展』東京堂出版、昭和63年、ISBN 4490261443。
- 大典顕常 『北禅文草』3之巻
- 頼春水 『在津紀事』
- 『平安人物志』明和5年版