柳沢淇園
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柳沢淇園(やなぎさわ きえん、宝永元年(1704年) - 宝暦8年9月5日(1758年))は、江戸時代中期の文人画家、漢詩人。服部南郭、祇園南海、彭城百川らとともに日本文人画の先駆とされる。
名ははじめ貞貴、元服後は里恭(さととも)、字を広美(こうび)もしくは公美。号は淇園のほかに竹渓、玉桂の別号がある。代々 権太夫と称した。中国風に修して柳里恭(りゅうりきょう)と名乗ることを好んだ。
[編集] 生涯
里恭は曽根家の次男として江戸神田橋の柳沢藩邸に生まれる。父 曽根保格は大老 柳沢吉保に仕えた甲府藩の重臣で、主君 吉保の信頼篤く、五千石の知行と柳沢姓を許され、加えて吉保の一字をも与えられるほど寵愛される。このような主君との関係は次世代も続き、里恭の名は吉保の子で主君 吉里の一字を拝領した。里恭は既に7歳の時、父の家禄を兄保誠と二分して二千石を受け継ぎ馬廻役に任ぜられており、特別扱いされた家臣であった。なお、母は山崎勾当の弟子であり、将棋を嗜んだ。
幼少の頃より藩邸においてエリート教育を受け、文武・諸芸に優れた才能を示した。儒学教育は13歳から受けており、書は細井広沢に学んだ。15歳で『文実雑話』を、その後に『青楼夜話』を著し、また『青楼十牛図』を画いたと伝えられている。いずれも現在まで伝わっていないがその早熟ぶりが窺われる。
8歳ころにはすでに狩野派の画法を学んでいたが、12歳にしてこれを形骸化していると批判し、渡辺秀石門下で長崎派の英元章に師事し、中国画法を学ぶ。その後元・明から渡来した古書画の模写や画論を独学で学び、彩色され精密な写生画を修めた。祇園南海と交流があり画法を受け画譜を贈られている。中国志向が色濃く、人物図・花卉図・墨竹図・指頭図などを得意としたが、寡作であり作品として伝わるものは少ない。
将軍綱吉の代が替わり大老吉保は失脚のまま歿しっていたが、8代将軍吉宗の新政権になると柳沢家は甲府藩十五万石から大和国郡山藩に左遷転封される。このころ、里恭は弱冠20歳で自伝的随筆『ひとりね』(1724年)を著しているが旺盛な好奇心と探求心、また色香に通じていた様を窺い知ることができる。
里恭は博学にして多芸多才であり武芸百般に通じていた。文は詩書画の以外に篆刻・煎茶・琴・笛・三味線・医術・仏教など、武は剣術・槍術・弓術・馬術・指揮法などに秀でており、人の師なったのは16項目もあったとされる。その万能は天才的であった。同藩の儒学者である荻生徂徠や服部南郭との関係が深く、国学にも通じており本居宣長や上田秋成、また岡島冠山、僧大潮とも交流があった。
兄 保誠の家は凶事が頻発し保誠が早世すると一家が絶えてしまった。このため里恭は一旦は家督を継いだが、不行跡で家督相続を差し止めされる(1728年)。恐らくはその奇行とあまりの奔放ぶりのため幕府に睨まれることを藩が怖れたためと推測される。2年後に赦され、二千五百石を給される。有能な家臣として寄合衆筆頭、大寄合などを勤め、三代藩主信鴻の画の師となっている。
里恭は多くの人と交遊を好み、自邸にて異常と思われるほど頻繁に宴席を催した。このため借金が嵩んでいたと伝えられる。
池大雅の才能を見抜き中国文人画を伝えた。のちにこの大雅により日本文人画は大成する。また少年期の木村蒹葭堂にも画技を伝え、画の師として大雅を紹介している。里恭は日本文人画 初期の画人として果たした役割は大きいが、彩色や構図など文人画としては異質な画様だった。
里恭の死後、木村蒹葭堂によって彼の代表的なエッセイ集『雲萍雑志(うんぴょうざっし)』が刊行(1796年)されている。ただし、森銑三はこの書を山崎美成の偽作と断じている。
[編集] 作品
- 「四季名花図」
- 「雪中梅花小禽図」
- 「花果籠図」酒田市所蔵
[編集] 出典
- 大槻幹郎『文人画家の譜』ぺりかん社、2001年、202 - 204頁、 ISBN 4831508985。
- 森銑三 「雲萍雑志についての疑」『雲萍雑志』柳沢淇園著 岩波書店、1936年、ISBN 4003025415。
- 伴蒿蹊『近世畸人伝』森銑三校訂 ISBN 4003021711。