鬼塚勝也
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鬼塚勝也 | |
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基本情報 | |
あだ名 | スパンキーK |
階級 | スーパーフライ級 |
誕生日 | 1970年3月12日 |
出身地 | 福岡県北九州市 |
現在地 | |
スタイル | |
プロ戦績 | |
総試合数 | 25戦 |
勝ち | 24勝 |
KO勝ち | 17KO |
敗け | 1敗 |
引き分け | |
無効試合 |
鬼塚 勝也(おにづか かつや。本名:鬼塚 隆(たかし)、1970年3月12日 - )は、福岡県北九州市出身の元プロボクサーで、WBA世界スーパーフライ級王者として5度の防衛に成功した。愛称は「SPANKY(スパンキー)・K」。
常に自らを限界以上にまで追い込み、"常識外れ"というべき超ハードトレーニングで実力を磨いた。また、リングでは常に最悪の状況をシミュレートし、ここからどのように這い上がるかを考えながら戦ってきた。
協栄ボクシングジムの金平正紀会長(故人)が生んだ最後の日本人世界王者でもある。
幼少時代は体が弱く、満足に走ることさえできなかったそうである。
小学校時代からボクシングの世界王者を志すようになり、中学3年時に地元のボクシングジムに入門。本格的にボクシングを始める。
豊国学園高等学校1年時、福岡県高校モスキート級で優勝(決勝戦で後にライトフライ級で3度世界王座挑戦東福岡高校の1学年上八尋史朗に判定勝ち)。2年時、インターハイライトフライ級で優勝。3年時にはフライ級で2階級制覇を目指すが、準決勝で後にWBC世界スーパーフライ級王者となる徳島県立海南高等学校の川島郭志に敗れた。
近畿大学への推薦入学が内定していたが、WBC世界ミニマム級初代王者になって間もない井岡弘樹とのスパーリングで打ちのめされ、高卒でのプロ入りを決意。
高校2年時の修学旅行も参加せず単身上京。自らの足で東京都内のボクシングジムを回る。この時、協栄ジムの古口哲トレーナーと意気投合し、後に協栄ジムに入門することになる。
プロデビュー時は本名の"鬼塚隆"、フライ級新人選手としてリングに上がったが、「どんな形でも勝つことにこだわりたい」との願いから、リングネームを"隆"から"勝也"に改めた。
プロデビュー後、プロボクサーのライセンスを持つタレントの片岡鶴太郎をマネージャーに迎える。
ピューマ渡久地(本名・渡久地隆人)、辰吉丈一郎と共に"平成の三羽烏"と称され、後楽園ホールの客席を埋める熱狂的ムーブメントを起こし1990年代初期の日本プロボクシング界を彩った。
WBA世界スーパーフライ級王座19度防衛のカオサイ・ギャラクシー(タイ)が引退し、空位となった同級の王座決定戦でタノムサク・シスボーベー(タイ)と争い、僅差の判定勝ちを収め、世界王者となったが、この時の判定は協栄マジックと言われる"疑惑の判定"として話題となった。そして週刊誌「SPA!」(扶桑社)では、防衛するたびに「今週の顔」のページにて鬼塚を非難する記事が掲載された。
また、平野寿将とは現役時代から親交が深い。
目次 |
[編集] プロボクサーとしての経歴
- 1988年4月18日、プロデビュー。秋山昭次に1回1分53秒KO勝ちを収める。この試合のみフライ級
- 1988年6月20日、プロ第2戦目、リングネームを「鬼塚勝也」に改める。加田智に1回KO勝ち。
- 1988年12月21日、東日本スーパーフライ級新人王獲得。
- 1989年2月27日、全日本スーパーフライ級新人王獲得。
- 1990年10月15日、日本王座初挑戦。同年6月29日にカオサイに挑戦した経験を持つ中島俊一を10回1分46秒TKOに降し、日本スーパーフライ級王座獲得(3度防衛後返上)。
- 1992年4月10日、世界初挑戦。カオサイの引退によって空位となっていたWBA世界スーパーフライ級の王座決定戦に出場。タノムサクと対戦し、僅差ながら12回判定勝ちで王座獲得に成功するも、判定に異議を唱える声が多く、"疑惑の判定"として物議を醸す。(なお、この日はメキシコで平仲明信がWBA世界スーパーライト級のタイトルを獲得し同時に2人の日本人世界チャンピオンが誕生している。)
- 同年9月11日、初防衛戦。これが4度目の世界挑戦となる松村謙一に5回TKO勝ち。なお、これが鬼塚にとって世界戦唯一のKO勝ちであった。
- 同年12月11日、2度目の防衛戦。カオサイをダウンさせたこともある強打者アルマンド・カストロ(メキシコ)と対戦。初回こそ挑戦者の攻勢を許したが、2回以降は完全に主導権を握り、以降は1度も相手に主導権を譲ることはなかった。誰が見ても疑いようのない大差の判定で完勝。この試合は鬼塚のベストバウトとも言われている。
- 1993年5月21日、3度目の防衛戦。林在新(韓国)と対戦。林は"林小太郎"のリングネームで京都の洛翠ジムに所属。日本のリングを拠点に戦っていたが、主催者側の要望もあり、この試合は本名を名乗っての試合となった。前評判では王者の楽勝が予想されたが、いざ試合が始まってみると、挑戦者のパンチが面白いように当たり、王者は大苦戦。試合は12回判定で王者の防衛となったものの、採点を担当した3人のジャッジのうち2人が日本人だったこともあり、"地元判定"とも称された。王者にとっては非常に後味の悪い防衛戦となってしまった。
- 同年11月5日、4度目の防衛戦。タノムサクと1年7ヵ月ぶりの再戦。前回同様、フルラウンドに渡り、一進一退の攻防を展開。僅差ではあったが、王者が12回判定勝ちを収め、返り討ちを果たした。
- 1994年4月10日、5度目の防衛戦。当初は李炯哲(韓国)と対戦する予定であったが、挑戦者側が父親の病気を理由にキャンセルを申し入れ、同じ韓国人選手の李承九が代役を務めた。試合は5回に王者がプロデビュー以来初のダウンを奪われたものの、その後猛反撃を展開し、12回判定勝ちを収めた。
- 1994年9月18日、6度目の防衛戦。父親の病気を理由に4月の対戦を取り止めた李炯哲と改めて対戦。一進一退の攻防に終始していたが、迎えた9回、挑戦者の連打に捕まる。コーナーに追い詰められ、挑戦者の連打を1分以上浴び続ける。ダウンを拒み、ガードを固めながら反撃の機会を伺うが、もはやその余力は残されていなかった。そして、この回2分55秒、遂にレフェリーが試合をストップ。この瞬間、2年5ヵ月間保持してきた世界王座を手放すこととなった。試合後、右眼に異常があったことを自ら打ち明け、現役引退を表明。その右眼は後日の精密検査で「網膜剥離」と診断された。実は、2年前から右眼の異常を感じていたが、当時はそれが元で引退に追い込まれるのを恐れ、誰にも話すことが出来なかったそうであった。
最終戦績は25戦24勝(17KO)1敗。
[編集] 引退後
引退直後はしばらく公の場から姿を消していたが、現在は福岡市にボクシングジム「スパンキーK・セイクリッド・ボクシングホール」を開設し、後進の指導に当たっている。また、現役時代から世話になったTBSのテレビ中継で解説を務めている。