片岡鶴太郎
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片岡 鶴太郎(かたおか つるたろう、1954年12月21日 - )は、東京都荒川区西日暮里出身のタレント・俳優・画家。本名は荻野 繁雄(おぎの しげお)。愛称は「鶴ちゃん」。太田プロダクションに所属。
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[編集] 概要
[編集] 生い立ち
10才のとき動物のものまねでフジテレビの素人参加番組にテレビ出演。その時のADが後に笑っていいとも!のプロデューサーとなる横澤彪だった。早くから芸人を志し高校へ進学するつもりだったが、家庭の経済事情で授業料の安い公立高校しか行けないと言われた。中学3年生の時、成績が下から2、3番だったが、夏休みの1ヶ月間で小学校6年生の教科書からやり直し上位10番に入る。無事東京都立竹台高等学校に入学し演劇部に所属、3年次には部長を務めた。
[編集] デビュー
ゲスト出演した文化放送『くにまるワイド ごぜんさま~』でのインタビューによると、高校卒業後、役者を目指し、清川虹子の所へ何のあてもないままいきなり訪問し、弟子入りを志願したが、清川の付き人から「男の付き人は採らないから」と断られ、何とか弟子入りは許してもらえるだろうと思っていた目論見が崩れ、生活の為しばらく土木作業員等の仕事を経験した後、声帯模写の片岡鶴八に弟子入りする。声帯模写で東宝名人会や浅草松竹演芸場などの舞台に出演するようになる。
師匠である片岡鶴八は、「声帯は人によって違う。だから、君に僕の芸はそのまま教えられない。」と、芸を教えてもらえなかったという。しかし、そば屋に連れて行ってもらった際、そばの食べ方の手ほどきを受けたり、「芸人として売れるまで、そば屋ではもりそばしか食べてはいけない」と、芸人としての「粋」を教えてもらったという。その師匠は、もりそばを食べる鶴太郎の目の前で江戸前の天丼を食べていたが、これは「早く売れる芸人になれよ」という師匠なりの激励であった。鶴太郎は、師匠の懐の深さを知り、「いつかは師匠と天丼を食べたい。」と決意するが、不幸にも売れ出した頃に師匠は亡くなってしまう。
岡鶴太郎の芸名でトランポリンの地方興行を行う。しかし、このままで終わってしまうと脱退。地方の温泉旅館で司会やものまねの仕事につく。旅館の老人には小森のおばちゃまのものまねはウケなかったが、鶴太郎の才能を理解してくれた座長の娘さんと上京、結婚した。
[編集] 全国区の人気
その後、漫才ブームの仕掛け人となった横澤と再会。片岡鶴太郎の芸名でテレビに進出する。お笑いタレントとして『オレたちひょうきん族』のコーナーで近藤真彦のものまねにより一躍脚光を浴び、その後も九官鳥の「キューちゃん」のマネや浦辺粂子のものまねもしていた。当時は贅肉が多い体型で、熱いおでんを無理矢理食べさせられて大げさなリアクションを繰り出す、被虐的なキャラクターだった。そのため、片岡鶴太郎がリアクション芸人の元祖だとの声もある。
また今でこそその芸風は払拭され全く見られないが、下ネタに関するトークなどをオールナイトフジでは多く露出し(おまるの中にかりんとうを入れて示すなど)、特に同番組内の”鶴太郎劇団”という寸劇を行うコーナーではよく女装をし(逆に共演の女子大生が男装)絡みのシーンを演じたり、はたまた劇の最後のオチでお決まりの全裸を女子大生に見せ付けるといった(井手らっきょもこの鶴太郎の芸風に影響を受け全裸ネタを用いたと後に説明)見るに耐えないキャラクターでもあった。「アブラギッシュな男No1」という不名誉な称号を得たのもこの頃である。
お茶の間に定着して以降、物まねではとりわけ老けキャラの開拓を得意とし、小森和子、浦辺粂子、坂上二郎など多数。後年にも、宮路社長や横山弁護士ら、話題の人物を好んで演じてみせた。持ち前の器用さから、バラエティ番組の司会やトークも数多くこなし、1986年には片岡の造語「プッツン」が新語・流行語大賞の流行語部門・大衆賞に選ばれた。
[編集] 多方面での活動
元々歌が上手く、歌唱力の高さを活かして1980年代半ば頃まではコンスタントにシングルを発売していた。「IEKI(胃液)吐くまで」など名曲が多いが、オレたちひょうきん族などで歌わせてもらうも何故かヒットしなかった。逆にお世辞にも上手とは言えない明石家さんまが「真赤なウソ」や『タケちゃんマン』の挿入歌「アミダばばあの唄」、CMで話題となった「幸せってなんだっけ」をヒットさせたことで、「何でさんまより歌の上手いオレの曲がヒットしないんだ…?」とぼやいていた(尚、鶴太郎は当時「ひょうきん族」の収録日である水曜日に生放送されていた「夜のヒットスタジオ」にも歌手として2度ほど出演実績を持っているが、さんまは飛び入りの応援ゲストとしての登場はあったが、歌手としての出演実績はない)。
1988年、プロボクサーテストを受験。ボクシングのプロテストは30歳までしか受験できないため、当時33歳だった鶴太郎には本来、受験資格がなかった。しかし、日本ボクシングコミッション(JBC)に懸命に頼み込んだところ、「合格しても試合には出場できない」という条件で、特別に受験させてもらうことができた。結果は"合格"。プロボクサーのライセンスを取得するも、JBCとの約束によりプロ選手としてリングに上がることはできなかった。即ち、彼にとってはプロテストでの実技試験(スパーリング)が最初で最後の"実戦"となった。プロボクサーを目指し、前年から減量を始め、これまでの"小太り"から急激にシャープな体型に変わった。プロテスト後は鬼塚勝也や畑山隆則のマネージャーとして、両氏の世界王座奪取に大きく貢献(タイトルマッチではセコンドを務める)。なお、ボクシングのプロテスト受験の理由は、「今までの自分が嫌になり、それを否定したかった。」という理由からである。
1988年公開の映画『異人たちとの夏』出演での数多くの受賞をきっかけとして、活動の軸足を俳優に移す。1991年のNHK大河ドラマ『太平記』の北条高時役は役者としての決定的評価を得ることになる。大河ドラマでは後年、元禄繚乱でも英一蝶役を怪演した。また家栽の人で、植物を愛し人間の本質を見抜く暖かみのある判事役を、ララバイ刑事ではどこか虚無的な雰囲気のある刑事を好演。
最近では2時間サスペンスドラマの主役として活躍する機会が多い。特に『終着駅シリーズ』での牛尾正直は当たり役の一つ。
また、1990年代には横溝正史原作一連の推理ドラマに、主人公の探偵・金田一耕助役で毎年出演(計10本)し、石坂浩二や古谷一行らと並んで金田一役の代表的俳優の一角を占めることになった。
飲み友達だった志村けんの著書によると、「自分は物まねも中途半端だし、お笑いでたけしさんやさんまさんには敵わない。コントだって志村さんがいる。だから、俳優に行くしかないんだ」と、飲んでいる際に語ったとされている。が、この俳優への転身が揺るぎない評価に繋がっている事は言うまでもない。
『八丁堀の七人』では久々に山田邦子と共演している。街中で二人が揉めるシーンはどこか『オレたちひょうきん族』のコントを髣髴とさせた。
『笑っていいとも!』に出演の際、タモリと「キューちゃん」のマネを必ず行う。ちなみにこれは『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』に出てきた九官鳥がモデルとなってる。
1980年代には某女性タレントととの浮気が報道され、ビートたけしが「鶴太郎の野郎、この前カミさんがマンションに来てしょーがないから義理でやってたら隣の住人に『うるさいなー!毎日毎日!』と言われちゃった」としゃべり、当時の鶴太郎の人気のほどが伺えた。
[編集] 芸術家としての片岡鶴太郎
タモリに影響を受け、挿絵を描くことを始める。コメディアンとしての仕事から距離を置くにつれ、1989年にドラマ『志功の青春記 おらあゴッホだ』で若き頃の棟方志功を演じたことをきっかけに、水墨画を描くことや陶芸など美術方面へ傾倒していく。
群馬県吾妻郡草津町、福島県福島市に美術館、石川県加賀市、佐賀県伊万里市に工藝館がある。
右利きだが、絵は必ず左手で描いている。これはボクシングでの構えが左手が前(オーソドックス)だったためらしい。
青森大学で芸術論を担当。2003~2004年にはNHK「趣味悠々」で講師をつとめた。
最近では、ドラマの収録の合間に近所の人に請われ口紅一本で絵を描くこともある。
[編集] 松村邦洋との出会い
片岡は、福岡にあるテレビ西日本 (TNC)を訪れた際に、そこでアルバイトをしていた中太りの青年と出会い、「君、たけしさんのものまねをしているよね。いいよ~、面白いよ~」と声をかけた人物は大学生の松村邦洋であった。この出会いで、松村は大学を中退、上京することとなった。 現在は松村にこの出会いをものまねされている。
[編集] ものまねレパートリー
- 井上陽水
- 浦辺粂子
- 金子信雄(仁義なき戦いの親分風)
- 具志堅用高(「ちょっちゅね」ものまねの元祖)
- 小林旭(「チェッ」ものまねの元祖)
- 小森和子
- 近藤正臣(「コンドーですっ」ものまねの元祖)
- 近藤真彦(「マッチでーす」ものまねの元祖)
- 坂上二郎(「飛びます、飛びます」ものまねの元祖)
- 千昌夫
- たこ八郎
- 塩沢とき
- 山本晋也
他多数
[編集] 出演
[編集] ラジオ
- 片岡鶴太郎の土曜日は鶴日和(文化放送)
- 片岡鶴太郎の遊More達人クラブ(文化放送)
[編集] テレビドラマ
- チョッちゃん(1987年4月~10月)
- 太平記(1991年、大河ドラマ 北条高時 役)
- 連続テレビ小説 春よ、来い(1994~1995年)
- 毛利元就(1997年、大河ドラマ 井上元兼 役)
- トキオ 父への伝言(2004年8月~9月)
- ◇日本テレビ系
- ニュースなあいつ(1992年 よみうりテレビ)
- おれはO型・牡羊座(1994年)
- ◇TBS系
- ◇フジテレビ系
- 季節はずれの海岸物語(1988年~1994年)
- あなたが欲しい(1989年)
- 世にも奇妙な物語「追いかけた男」「帰れない」「逆転」「夢のつづき」(1990年~1992年)
- 金田一耕助シリーズ獄門島(1990年)
- 金田一耕助シリーズ悪霊島(1991年)
- 金田一耕助シリーズ本陣殺人事件(1992年)
- 金田一耕助シリーズ悪魔の手毬唄(1993年)
- 上を向いて歩こう!(1994年4月~6月)
- 金田一耕助シリーズ犬神家の一族(1994年)
- 金田一耕助シリーズ八つ墓村(1995年)
- 金田一耕助シリーズ悪魔が来りて笛を吹く(1996年)
- 金田一耕助シリーズ女怪(1997年)
- 金田一耕助シリーズ女王蜂(1998年)
- 鬼が来た・棟方志功(関西テレビ)
- ◇テレビ朝日系
- ザ・刑事(1990年4月~9月 田中刑事 役)
- ララバイ刑事
- 森村誠一・終着駅シリーズ
- 影武者徳川家康(1998年)
- 八丁堀の七人(仏田八兵衛 役、題字)
- ◇テレビ東京系
- 古賀政男物語(1992年3月、テレビ大阪)
- なんでも屋大蔵の事件簿(2002年~2003年、女と愛とミステリー)
- 警察署長・たそがれ正治郎シリーズ(2005年~)
[編集] 映画
- 19(ナインティーン)(1987年8月 東宝、破壊された消火栓から噴き出す水を傘でよける通行人役、セリフなし)
- 異人たちとの夏(1988年 監督:大林宣彦)
- 写楽(1994年 監督:篠田正浩 十返舎一九役)
- でべそ(1996年 監督:望月六郎)
- SADA(1998年 監督:大林宣彦)
1989年第12回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞受賞
[編集] バラエティ
- オールナイトフジ(フジテレビ)
- オレたちひょうきん族( - 1989年 フジテレビ)
- 夕やけニャンニャン(フジテレビ)
- 鶴ちゃんのギャグハラスメント(フジテレビ)
- 今日もワクワク(1985年 - 1986年、日本テレビ)
- 鶴ちゃんのトッピング(1985年 - 1986年、日本テレビ)
- 鶴ちゃんのプッツン5(日本テレビ)
- 上海紅鯨団が行く(1986 - 1987年 関西テレビ)
- 鶴ちゃんのおもいっきりポコポコ(1986年、テレビ朝日)
- 鶴太郎の大人によくないテレビ(1986年 - 1987年、テレビ朝日)
- 鶴太郎のテレもんじゃ(1986 - 1987年 日本テレビ)
- 森田一義アワー笑っていいとも!(1984年 - 1993年・1994 - 1995年 フジテレビ)
- スターどっきり(秘)報告(フジテレビ)
- クイズ赤恥青恥(1995年~2003年 テレビ東京 )
- FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島(フジテレビ)
- トリビアの泉(ゲスト出演・2004年7月21日、2005年7月13日放送分)
- 脳内エステ IQサプリ(ゲスト出演・2006年3月25日放送分)
[編集] 情報番組
- 月刊 元気一番"生"テレビ(ミヤギテレビ・日テレ系東北・新潟ブロックネット放送)
- 風神の画布(群馬テレビ)群馬県広報番組