2インチVTR
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2インチVTRは、世界初の実用的なビデオテープレコーダの規格である。4個のビデオヘッドにより記録再生を行ったことから、4ヘッドVTR(英語の Quadruplex から)とも呼ばれる。テレビ放送開始当初から1980年頃(1インチ方式が普及する)まで、放送局で使用されたVTRの主流であったが、テープは大変高価で、作品が保存されずにテープが使いまわされることが多々あった。
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[編集] 概要
2インチ(5.08cm)幅のオープンリールのビデオテープに記録するVTRで、当初は軽自動車ほどの大きさがあり、トランジスタ化が進んだ最後期でも事務机程度のサイズがあった。 本方式は、米国AMPEX社が1956年に発表したもので、1インチ方式が普及するまで、放送業務用・送出用のVTRとして世界中で広く使われた。当初はモノクロームの記録再生のみであったが、1958年初め頃に米国RCA社独自によるカラー化改良によりカラーテレビ信号の記録再生が可能になったが、1959年初旬、アンペック社とRCA社はこれとは別に新しいカラー記録方式に合意し、これがカラー録画の標準フォーマット(後にローバンド記録方式と呼ばれる)となる。(前記のRCA社が独自に開発したのは、標準方式と違うために、それでの再生はできない。現在、RCA社独自開発のカラー再生機は米に2~3台位あるのみである。)1964年にはハイバンド記録方式、更に1972年にはスーパーハイバンド記録方式が開発されて、高画質の録画再生が実現し、日本でも1980年ころまでは各放送局の主力機であった。
[編集] 特徴
[編集] メカニズム
2インチ(50.8mm)幅のビデオテープをテープ移動方向に軸を持つ円筒面に磁性面を沿わせて走行させる。この円筒面と同軸に、4個のビデオヘッドを90度おきの放射状に取りつけたディスクを14400rpm(240Hz)で回転させる(図1)。テープの円筒への巻きつけ角度は90度強であり、4個のヘッドを次々に切り替えることにより常時どれかのヘッドがテープと接し、セグメント化した記録トラックを形成できる。実際の記録部分はテープ上下端への記録は不安定になることと、音声およびサーボ制御トラックを設けるため約1.8インチほどの幅を用いた。図2にテープ磁性面から見た記録の配置の概念図を示す。図の色分けは4個のヘッドがそれぞれ記録する分担を示す。音声トラックおよびコントロールトラックについては後述。
NTSC方式においては60フィールド/秒で記録するため、1フィールドを縦方向に16のセグメントに分けて記録することになる(垂直ブランキング区間を含む)。 ヘッドとテープの相対速度は約40m/sに達し、約13MHzまでの磁化反転を記録できた。 回転ヘッド機構は凹型のガイド(フィーメールガイド)側から真空ポンプを用いてテープを吸引し、安定したヘッド-テープの接触を保つようになっていた。このヘッド機構は極めて精密な加工組み立て精度を有する。磨耗したヘッドの交換は精密な測定器を持つ工場で行う必要があるため、ユーザーはヘッド機構単位で予備を持つのが普通であった。 回転ヘッドの他に、テープ送り機構として供給・巻取リールメカニズム、キャプスタンとピンチローラ機構、テープの弛みを押さえて張力を安定させるためのテンションアーム機構、音声およびサーボ信号を記録するための固定ヘッド等を備えた。
[編集] ビデオ信号処理
映像信号のような広帯域(NTSCで数10Hz~4.2MHz)の情報を磁気記録するには、ベースバンド信号のままでは困難である。これは磁気記録では記録する周波数に比例して記録再生出力が高くなり、たとえイコライザ回路を使用してもフラットな周波数特性が得られないためである。 このため、2インチVTRの出現以前のVTRでは多チャンネル記録方式、すなわち多数の固定ヘッドに信号を分割し、1組のヘッドあたりの帯域を押さえようとしていた。
しかし、AMPEX社の開発チーム(リーダーはチャールズ・ギンズバーグ Charles Ginsburg。このチームには学生時代のレイ・ドルビー(ドルビー研究所の創設者)が加わっていた)は、ビデオ信号を周波数変調してテープに記録する方式を発明した。FM変調の周波数偏移は初期のローバンド機で約4~6MHz、カラー用のハイバンド機は約7~10MHzであり、周波数特性はイコライザで補償することができた。
[編集] オーディオ記録
音声信号の記録はオーディオテープレコーダーと同等の技術で、固定ヘッドでテープの端部に長手方向記録を行った。
[編集] テープ走行制御
ビデオ信号に同期したコントロール信号を記録するコントロールトラックを音声トラックと同様な方式で記録し、再生時にはコントロール信号を元にキャプスタンの送り速度を制御するとともに、回転ヘッドとの同期を取り、正しいタイミングでビデオヘッドが記録トラックをトレースできるような制御を行った。
これらの広帯域信号の記録技術および精巧なメカニズムの制御技術は真空管を用いた当時の電子回路においては特に高度なものであった。後に電子回路はトランジスタや集積回路で置きかえられたものの、基本的な技術は変わることなく用いられた。しかも、その後の1インチVTRにおいても、信号処理やテープ走行制御の基本技術は本方式を継承発展させたものであり、この技術が先進的なものであったことを物語っている。 AMPEXは基本特許を広範に取得したため、芝電(現在の日立国際電子)やNECなどの国内メーカーは自社生産を行うためライセンス料を支払って技術導入をしていた。 一方家電メーカーはアンペックスの特許にとらわれずにVTRを生産できるように、ヘリカルスキャン方式の開発に傾斜していき、EIAJ統一I型、3/4インチU-Maticなどを経て、1/2インチのBetamaxやVHSを生み出した。
[編集] 2インチVTRの弱点
装置は大型で重く、設置場所に注意が必要であった。環境変化にも敏感で、注意深く防塵・空調された環境を必要とした。装置価格が高価であるばかりか、機器のメンテナンスコストは高く、またテープ消費量も多いためテープのコストも膨大であった。日本においてはNHKですら、放送済みのテープは消去して再使用しており、1960年代の放送記録の多くが保存されていない理由の一つでもあった。(現在、その当時の番組が「NHKアーカイブス」で放送される場合があるが、当時、テレビ番組をコレクションしていたという視聴者から寄せられた作品もかなりある。)事実、1964年に初めて国産2インチ用ビデオテープを発売した富士フイルム製のそれでも、発売当初から発売終了(1980年頃)まで、生テープが当時の金額で1時間1本約10万円もしたのだという。静止画やスローモーションの再生は原理上できなかった。
このように、当時のVTRは、番組制作には大変使いにくく、業界では、ドラマやドキュメンタリーなどをフィルムで制作していた。例えば、1963年(昭和38年)12月31日に放送された「第14回NHK紅白歌合戦」では、映像の記録媒体として、フィルムが使われたという。
[編集] 参考文献リンク
- 英語版ウィキペディアの2インチVTRの項目
- エド・サリバン・ショーのVTR使用第1回のビデオテープ発見の物語(英文)
- エド・サリバン・ショーのVTR使用第1回のオープニング部分(英文、QuickTimeによる視聴付)
- Ed Reitan's Color Television History アメリカのカラーテレビの歴史(英文、カラーVTR出始めの歴史が書かれているページ)
- 1958年10月17日放送の"An Evening With Fred Astaire"のカラービデオテープによるハイライト(英文、QuickTimeによる一部分(約2分)視聴付)
- RCA社の初期の2インチVTRについて(英文)