アイザック・バシェヴィス・シンガー
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アイザック・バシェヴィス・シンガー(Isaac Bashevis Singer: イディッシュ表記イツホク・バシェヴィス・ジンゲル:יצחק באַשעװיס זינגערあるいはיצחק בת־שבֿעס זינגער )はポーランド生まれのアメリカのノーベル賞作家(1902年11月21日あるいは1904年7月14日 - 1991年7月24日)。イディッシュ作家として初めてノーベル文学賞を受賞したが、しばしば性的な話題を取り上げたため、敬虔なユダヤ教徒からは顰蹙を買うこともあった。
[編集] 生涯
当時ロシア帝国領だったワルシャワ近郊のラジミンen:Radzyminで生まれる。生まれた時の名前はイツェク=ヘルシュ・ジンゲル(Icek-Hersz Zynger)。父は敬虔派(ハシディズム)のラビで、母バトシェバはラビの娘。筆名のバシェヴィスとは、バトシェバの息子という意味である。兄のイズラエル・ジョシュア・シンガー(イディッシュ名イスロエル・ヨシュア・ジンゲル)も高名な作家で、弟アイザックに最初の、そして最大の文学的影響を与えた。父はラビであると同時に判事でもあり、ワルシャワの敬虔派ユダヤ教徒の精神的指導者でもあった。
シンガーはワルシャワの貧しいユダヤ人街とビウゴライen:Biłgorajのシュテートルでイディッシュ語に取り巻かれて育ち、1920年、ユダヤ教の神学校に入学したが、やがてビウゴライに戻ってヘブライ語の教師で糊口をしのいだ。ラビを養成する学校での教育は彼に大きな影響を残したが、彼はそれと同時に文学にも惹かれており、文壇に迎え入れられることを熱望するようになった。1923年にワルシャワへ移り、兄イズラエルが編集するLiterarische Bleter誌で校正者として働きつつ、兄イズラエルから多大な精神的啓発を受け、また新時代の息吹を吹き込まれた。
1932年、処女作『ゴライの悪魔』をポーランドで上梓して文壇デビューを飾る。中世のイディッシュ年代記に擬したスタイルで、17世紀の贋メシアのシャバタイ・ツヴィを取り巻く出来事を描いた小説である。この作品の登場人物は、シンガーの他の作品の登場人物と同様、運命の気まぐれにしばしば翻弄されつつも、固有の情熱や狂気、偏見、妄執を失わない。後年の作品『奴隷』(1962年)でもシンガーは17世紀を扱っているが、こちらはユダヤ人男性と非ユダヤ人女性の愛の物語である。
1935年に兄を追って渡米。反ユダヤ主義から逃れる目的もあった。このころ、シンガーは最初の妻ラヘルと離婚。ラヘルは息子イスラエルを連れてモスクワへ、次いでパレスチナへ移った。シンガーはニューヨークに居を定め、イディッシュ紙『フォルヴェルツ(פֿאָרװערטס: 前進)』(en:Jewish_Daily_Forward)でジャーナリストとして、またコラムニストとして働き始めた。執筆はほとんどイディッシュ語のみで行い、ヴァルショフスキ(ワルシャワっ子)という筆名を使うこともあった。1940年にドイツ移民アルマ・ハイマンと再婚。1943年に米国の市民権を獲得して正式に米国人となる。今日なお週刊誌として存続している『フォルヴェルツ』紙との縁は、生涯にわたって続いた。
1940年代にはヨーロッパから多数のアシュケナジムが移民として米国に渡ったが、これらの移民の間でシンガーの文名は徐々に高まリ始めた。イディッシュ語の話し手はホロコーストでほぼ死に絶えてしまったため、第二次世界大戦後になるとイディッシュ語は「死んだ言語」と見なされがちだったが、シンガーはイディッシュ語が持つ力を信じていたし、イディッシュ語を読みたいと熱望する読者が多数いることを知っていたのである。1979年2月の『エンカウンター』en:Encounter_(magazine)誌のインタビューでシンガーは次のように語っている、すなわちポーランドのユダヤ人はほぼ死に絶えてしまったが「何かが…魂とも呼ぶことのできる何かが…宇宙のどこかにまだ漂っている。これは神秘的な感覚だが、真実はこの感覚の中にあるのだと私は感じている」と。シンガーの文学が過去の偉大なイディッシュ文学の伝統(たとえばショーロム・アレイヘム)に多くを負うていることは疑い得ないが、シンガーの場合はアプローチの手法が遥かに現代的で、かつアメリカ生活の経験からも大きな影響を受けている点に特色がある。中世のイディッシュ民話から魔術・神秘・伝説などの題材を駆りながらも、そこに現代的なアイロニーを盛り込んでいるところにシンガーの独創性があるといえよう。これらの主題は、奇妙なものやグロテスクなものとも関連している。
シンガーは18冊の長篇小説を出し、14冊の童話を出し、無数の回想録や随筆や記事を書いたが、彼の本領は12冊以上にのぼる短篇集にある。英語による最初の短篇集は『馬鹿のギンペル』(1957年)で、表題作は1952年、ソール・ベローによって英訳され、『パルチザン・レビュー』en:Partisan Review誌に登場した。『フォルヴェルツ』に掲載された短篇は、のちに『父の法廷』(1966年)などの短篇集にまとめられた。この短篇集には「羽の冠」(1973年)、「市場通りのスピノザ」(1961年)、そして実在のイディッシュ俳優ジャック・レヴィをモデルにした「カフカの友人」(1970年)などの名作が収録されている。彼の作品世界は、ゲットーやシュテートルで貧困と迫害の中に生きる東欧のユダヤ人社会に舞台を取り、そこでは盲信や迷信が素朴な信仰や儀式と渾然一体になっている。喜びと苦しみ、粗野と繊細、そこでは全てが混沌としている。野卑で淫らでけばけばしい原色の世界に、英知や諧謔が溶け込んでいるところに魅力があるといえよう。
シンガーの最も重要なテーマの一つに、新旧両世界の価値観のせめぎ合いという問題がある。これは主にシンガーの一族を描いた連作長篇『モスカット家一族』(1950年)、『領地』(1967年)、『財産』(1969年)などに登場するテーマで、時にトーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』にたとえられることがある。これらの作品の中で、シンガーは、19世紀から第二次世界大戦に至る時代を背景にして、旧家の一族が新しい世代によって分裂し零落する有様を描いている。
1960年代を通じて、シンガーは個人的な倫理の問題を追究し続けた。特に有名な作品は『敵たち-ある愛の物語』で、映画化もされている。これは、ホロコーストの或る生き残りがいかに己の欲望や複雑な家族関係と向き合い、信仰を失うかを描いた物語である。もう一つの作品『イェントル』はフェミニスト小説で、『愛のイエントル』の題名で映画化されている(主演はバーブラ・ストライザンド)。この小説は、映画になったために今なお文化的影響力を持ち続けている。
シンガー自身の宗教との向き合い方は複雑だった。正統派のユダヤ教に絆を感じつつも、自分自身を懐疑論者かつ個人主義者と見なしていたからである。彼自身の思想は最終的に「私的神秘主義」と彼が呼ぶものに変遷した。「なぜなら神は完全に不可知で永遠に何も語らないので、人が想定するどんな特徴でも持っているだろうからだ」と彼は語った。
1978年にノーベル文学賞を受けてからは、世界中の文学者の間で不滅の名声を獲得した。今ではむしろ、イディッシュ作家からの評価よりも、非ユダヤ人からの評価のほうが高い。
1991年、シンガーはフロリダ州マイアミで病死した。死因は脳卒中だった。彼は亡くなるまでの35年間、熱心な菜食主義者としても知られた。
[編集] 外部リンク
- 1978 Nobel Prize in Literature
- Nobel biography
- Review of Singer's Collected Stories
- What Yiddish Says article from The Weekly Standard
- An American exile article from The Jerusalem Post
- http://www.pbs.org/wnet/americanmasters/database/singer_i.html
- http://www.wbur.org/arts/2005/48687_20050101.asp
- Isaac Bashevis Singer (The Library of America)
- Isaac Singer's Gravesite
- Isaac Bashevis Singer (1904-1991) - pseudonym Warshofsky
- Bibliotheca Augustana Yidish lebn – a muster far ale felker. nobel-lektsye gehaltn fun y.b. singer in der shvedisher akademye dem 8tn detsember 1978 in shtokholm.
カテゴリ: アメリカ合衆国の小説家 | ノーベル文学賞受賞者 | 1902年生 | 1991年没