ジョニー・ハーバート
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F1での経歴 | |
国籍 | イギリス イングランド |
活動年数 | 1989 - 2000 |
所属チーム | ベネトン, ティレル, ロータス, リジェ, ザウバー, スチュワート, ジャガー |
出走回数 | 160 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 3 |
通算獲得ポイント | 98 |
表彰台(3位以内)回数 | 7 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1989年ブラジルGP |
初勝利 | 1995年イギリスGP |
最終勝利 | 1999年ヨーロッパGP |
最終戦 | 2000年マレーシアGP |
ジョニー・ハーバート(John Paul Herbert , 1964年6月25日 - )は、イギリス生まれの元F1ドライバー。1991年ル・マン24時間レースの優勝者。
2005年8月ジョーダン・チーム(MF1)でSRM(スポーティング・リレーションズ・マネージャー)に就任するが、本人は現役を引退していないとのコメント。
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[編集] 略歴
1987年イギリスF3選手権でチャンピオン獲得、この年9月にはF1ベネトンチームのマネージャーであったピーター・コリンズからオファーを受け、初めてF1マシンをドライブ、当時ベネトンのレギュラードライバーだったティエリー・ブーツェンのタイムを上回り注目される。
1988年国際F3000へステップアップ、ジョーダンチームに所属。開幕戦デビューウィンを飾るなど驚異的な速さを見せ付け、翌年からのF1ベネトンとの契約を結んだ直後、ブランズハッチでのレース中の多重クラッシュで足の複雑骨折をしてしまう。この骨折の影響で、今でもハーバートの右足首は曲がらないままであり、アクセルワークは膝の屈伸で行っている。
1989年F1開幕戦ブラジルGPには、完治しない足のままベネトンで参戦。松葉杖を使わないと歩けない状況の中、デビュー戦でトップ争いを繰り広げながら4位という派手なデビューを果たす。「ジム・クラークの再来!?」と周囲は沸き立ち、加えてこの頃のハーバートは言動が傲慢であり、新人らしからぬ発言も相まって注目を浴びる。しかしその後は足の経過も思わしくなく、またチーム内の政治的抗争に巻き込まれてしまい、第7戦フランスGPからシートを失う。余談だが、その後のシートに座ったエマニュエル・ピロは、ハーバートの成績を上回れなかった。その後ティレルからのオファー(シーズン途中からティレルのレギュラーになったジャン・アレジが、元々参戦していて、チャンピオンを争っていた国際F3000に参戦する際の代役)で数レースを走り、翌年全日本F3000選手権へ出場する。
その後は全日本F3000や全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)に参戦しながら、ティレルやロータスでF1にスポット参戦する。また、1991年のル・マン24時間レースにフォルカー・ヴァイドラー、ベルトラン・ガショーとともにマツダから参戦、ロータリーエンジンによる唯一の優勝をアンカードライバーとして勝ち取る。尚、脱水症状が酷く表彰台には立てなかった。
1991年のルマン後に富士スピードウェイで開催された全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)第3戦にマツダ787Bで参戦したが、日産の和田孝夫選手のドライブするマシンが1コーナーで横転炎上し、和田選手が炎上するマシンから脱出できないところを見て、参加者の中で唯一レースをやめて救出に向かったスポーツマンシップの持ち主でもある。この頃にはF1デビュー当時の生意気な部分は影を潜め、明るいキャラクターとファンサービスを大事にするドライバーとして認知され始める。「今日の調子は?」とプレスに問われると、ニューヨークのブラックのノリで「オレたちゃいつでもOKよ!」と言い、側にいたデイモン・ヒルから「若いやつの発言だからご勘弁を」とフォローされるほどであった。
1992年からロータスのレギュラードライバーとしてF1に本格復帰。この時ロータスチームを指揮していたのはかつてベネトンでF1への道を作ってくれたピーター・コリンズであった。斜陽のロータスでミカ・ハッキネンと共に速さを見せ、再び注目を浴びる。が、そのロータスは資金難により1993年終盤から成績が下降し始め、1994年に無限ホンダエンジンを獲得するも新スペックの投入がイタリアGPまでと大幅に遅れ、途中にはマクラーレンから自身に来たオファーを断った事とマシン開発が進まない事を巡りピーター・コリンズとの関係も悪化、ヘレスでのグランプリ直前に契約をフラビオ・ブリアトーレ率いるリジェ、1レースのみで今度はベネトンへと転売され、移籍。1995年もそのままベネトンでドライブし、イギリスGPとイタリアGPで優勝を飾るも、ミハエル・シューマッハ完全優先主義のチーム体制に不満が爆発、1年でチームを去る。事実、「シューマッハスペシャル」と呼ばれるほど、マシンはシューマッハ用にセッティングされており、この後のベネトンは、ジャン・アレジやゲルハルト・ベルガーといった一流ドライバーを擁してもチャンピオン争いに加わることが出来なかったことからも証明されている。
翌1996年からはザウバー、1999年からはスチュワートをドライブ。ヨーロッパGPでは大荒れの展開の中スチュワート(翌年よりジャガーとチーム名を変更)の最初で最後の優勝をもぎ取り、周囲に実力を再認識させる。しかし、その後は冴えない成績が続き、2000年限りでF1から引退。その後、ALMSを中心に活躍している。また、2003年には、マーク・ブランデル、デビッド・ブラバムとベントレーからル・マン24時間レースに参戦してファステスト・ラップを記録した。(順位は2位)
2006年、MF1レーシングのスポーティングリレーションズマネージャーに就任した。
[編集] F1での年度別成績
年 | 所属チーム | 獲得ポイント | ランキング | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | 予選最高位・回数 |
---|---|---|---|---|---|---|
1989年 | ベネトン / ティレル | 5 | 14位 | 4位・1回 | 0回 | 10位・1回 |
1990年 | ロータス | 0 | - | - | 0回 | 15位・1回 |
1991年 | ロータス | 0 | - | 7位・1回 | 0回 | 20位・1回 |
1992年 | ロータス | 2 | 14位 | 6位・2回 | 0回 | 6位・2回 |
1993年 | 11 | 9位 | 4位・3回 | 0回 | 7位・2回 | |
1994年 | ロータス / リジェ / ベネトン | 0 | - | 7位・3回 | 0回 | 4位・1回 |
1995年 | ベネトン | 45 | 4位 | 1位・2回 | 4回 | 4位・2回 |
1996年 | ザウバー | 4 | 14位 | 3位・1回 | 1回 | 8位・1回 |
1997年 | 15 | 10位 | 3位・1回 | 1回 | 7位・3回 | |
1998年 | 1 | 15位 | 6位・1回 | 0回 | 5位・1回 | |
1999年 | スチュワート | 15 | 8位 | 1位・1回 | 1回 | 5位・1回 |
2000年 | ジャガー | 0 | - | 7位・1回 | 0回 | 8位・1回 |