ジョン・スチュアート・ミル
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ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806年5月20日 - 1873年5月8日)はイギリスの哲学者にして経済学者であり、社会民主主義・自由主義思想に多大な影響を与えた。ベンサムの唱えた功利主義の擁護者。晩年は自ら社会主義者を名乗る。
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[編集] 生涯
ミルの生涯は彼の精神的、思想的発達の描写を中心とした、自身による『自伝』(『ミル自伝』とも。1873年)で詳細に語られている。
[編集] 幼年時代
ジョン・スチュアート・ミルはロンドンにてジェームズ・ミルの長男として生まれた。ミルは父親によって教育され、また父親と親交が深かったベンサムやフランシス・プレイスにも助言をもらったりした。その教育法はすさまじく、彼は小さい頃から年中勉強させられ、父親はミルが同年代の他の子供たちとは遊ばないようにさせた。父親のジェームズ・ミルはベンサムの思想に共感しており、また連合主義(associationism)の支持者でもあった。父親のジェームズはそれらの考えにもとづき、ミルを優れた知識人として、またベンサムと自分に続く功利主義者として育て上げようとしたのである。
よって、子供時分のミルは普通では考えられないような業(わざ)をやってのけた。彼は、三歳にしてギリシャ語のアルファベットと単語を母国語の英語と共に教わり、八歳になるまでにアイソポス寓話、クセノポンの『アナバシス』、ヘロドトスの著作全てを読み、またルキアノス、ディオゲネス・ラエルティオス、イソクラテス(Isocrates)、プラトンの六編(ミルの自伝を参照)を理解した。彼はまた英語で書かれた歴史の本も多く読んでいる。
8歳から13歳にかけてのミルの学習の記録は、彼と同時代に生きたスコットランドの哲学者であるアレクサンダー・ベイン(Alexander Bain)によって出版されている。ベインによると、ミルの自伝は彼が実際にやってのけた学習量を控えめに述べているという。8歳の時分にミルはラテン語、ユークリッド幾何学、代数学を学び始め、父親によって家族内で彼の弟たちの教師役に選ばれた。彼の読書の大部分はいまだ歴史物が大半を占めていたが、ミルはまた当時の学校や大学で広く読まれていた全てのラテン語とギリシア語の著作を読んでもいた。ミルはラテン語やギリシア語で作詩することは教(おそわ)らず、それらの言語での著作の内容を理解するためだけに向けられていて、10歳の頃には彼はプラトンやデモステネスを難なく読むようになった。彼が12歳の頃、1818年に父親のジェームズによる著作『インドの歴史』が刊行され、そのほぼ直後からミルはスコラ論理学を全般的に学び始め、またそれと同時に、アリストテレスの論理学に関する論文を原語で読みはじめた。翌年、彼は政治経済学を始め、アダム・スミスや リカードを父親と共に学習・研究し、彼らの古典経済学の生産要素の見方を完全に学び取った。
[編集] 精神の危機とその後
しかし、あまりの天才教育の反動であろうか、ミルは21歳のときに本人の言う「精神の危機」に陥り、興味・意欲の著しい減退とうつ状態に陥った。ワーズワースなどの当時のロマン主義への接近と、(時系列上は少し遅れるが)当時人妻であったハリエット・テイラーとの親密な交友関係によってミルはこの危機を乗り切っている。後者については、モラルにうるさいヴィクトリア朝期としてはかなりの問題であったが、ミル本人の証言によれば、この時期のミルとハリエットは清い交際を保っていた、との事である。ハリエットは社会活動家でもあり、その後のミルの著作全体に強い影響を与えている。その後、ミルとハリエットはテイラー氏の没後の1851年に結婚しているが、ハリエットの急死(1858年)によって結婚生活は短命に終わった。ハリエットの没後は、その娘のヘレンがミルの支えとなった。
ミルはケンブリッジ大学から研究の場を提供されたがこれを断り、父と同様に東インド会社に奉職した。従って、ミルは専門職としての「学者」であったことは一度も無い。
東インド会社の解散後は、ロンドン・ウエストミンスター選挙区選出の無所属下院議員として1865年から68年まで短期間ながら選出されている。ミルは当時のリベラリストの代表格として、この時期にアイルランドの負担軽減を主張し、イギリス下院における最初の婦人参政権論者となっている。「代議制統治論」では比例代表制、普通選挙制など、はるかに時代の流れに先駆けた選挙制度改革を主張した。植民地におけるジャマイカ事件でダーウィンなどとともに反乱側(黒人)を擁護し、エア総督を弾劾する論陣を張ったのもこの時期である。もっとも、政治家としてはあまりにも先進的・理想主義的であったために世の受け入れるところとならず、次の選挙では落選している。結局、英国で男女の普通選挙が実現したのは1928年のことであった。なお、ミルはバートランド・ラッセルの名付け親でもある。
ミルはフランスのアヴィニヨンに滞在中に、丹毒(連鎖球菌感染症の一つ)によって死去した。
[編集] 学問におけるミルの業績
今日ミルの主著と考えられているものの多くは、1840年代以降(『自伝』における最終章にあたる)に書かれている。ミルは様々な学問で業績を残したわけだが、あらゆる彼の思想の基礎にあるものは(彼自身の)功利主義という倫理的な姿勢であり、それらは『功利主義』(1861年)などおいて彼自身が述べている。
[編集] 政治哲学におけるミル
人が一生をかけてもなし得ないような偉業を様々な分野でやり遂げたミルだが、その中でもとりわけ彼の名が刻まれているのは政治哲学での貢献であろう。ミルの著わした『自由論』(1859年)は自由とは何かと問いかけるものに力強い議論を与える。ミルは、自由とは個人の発展に必要不可欠なものという前提から議論を進める。ミルによれば、私たちの精神的、道徳的な機能・能力は筋肉のようなもので、使わなければ衰えてしまう。しかし、もしも政府や世論によっていつも「これはできる。あれはできない。」と言われていたら、人々は自らの心や心の中に持っている判断する力を行使できない。よって、本当に人間らしくあるためには、個人は彼、彼女自身が自由に考え、話せる状態(=自由)が必要なのである。ここで、ミルの功利主義はその提唱者であるベンサムとはたもとを分かつ。簡単に述べると、ミルの功利主義は、快楽に(ベンサムが唱えた量的なものよりも)質的な差異をみとめ精神的な快楽に重きを置いた。それは次のミルの有名な言葉で表されている:「満足した豚よりも不満足な人間である方が、また満足した愚か者よりも不満足なソクラテスである方がよい」(『功利主義』第二章)。
ミルの『自由論』は個人にとって自由とは何か、また社会(国家)が個人に対して行使する権力の道徳的に正当な限界について述べている。『自由論』の中でも取り分け有名なものに、彼の提案した「危害の原理」がある。「危害の原理」とは、人々は彼らの望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなだけ従事できるように自由であるべきだという原理である。この思想の支持者はしばしば リバタリアンと呼ばれる。リバタリアンという言葉が定義するものは広いが、通常は危害を加えない行為は合法化されるべきだという考え(=「危害の原理」)を含む。現代において、この「危害の原理」を基盤に幾人かのリバタリアンが合法化されることを支持するものとしては売春や現在非合法の薬物も含めた薬物使用がある。
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト「国家活動の限界を決定するための試論」はミルの「自由論」にも大きな影響を与えた。ミルは自由論を政府がどの程度まで国民の自由を制限できるか。国民はどの程度の客観的証拠による注意によって、自らの自由な注意によってどの程度まで政府に干渉されずに、自由な意思決定をなすべきなのかについて自由論において考察を行った。例として毒薬の薬品の注意書きは政府によって命令されるべきか、自らの自由な意思によって注意すべきかを挙げて考察している。もし自らの意思によって注意すべきであるならば、政府は注意書きをつけるように強制すべきではないが、それが不可能ならば政府は注意書きを強制すべきであるというのである。ここに国民の能力の問題をも取り上げることとなった。 これは酒や、タバコの注意書きや、それと類似に経済学的に意味がある酒税や、タバコ税の意味についても同じことがいえることになる。もし注意すべきではないということになれば警察国家となるであろうし、一方リバタリアンのように経済的なことのみに注意すべきであるということも可能であろうし、またスウェーデンのような福祉国家を主張することも可能であるということになる。 ミルは自由論の中でコントの実証主義哲学を次のように解釈している。
- M. Comte, in particular, whose social system, as unfolded in his Système de Politique Positive, aims at establishing (though by moral more than by legal appliances) a despotism of society over the individual, surpassing anything contemplated in the political ideal of the most rigid disciplinarian among the ancient philosophers.(全訳:古代における哲学者の間でも最も頑迷なしつけ主義者の政治的理想としての厳格主義を熟慮した結果、それを克服することによって(道徳によるよりも、むしろ法的な適用によって)個人に対しての社会の専制を確立する目的を持った社会システムを、コントは特に「実証主義政治システム」の中で展開したのである。Mill"On Liberty"より直接引用。)
このヴィルヘルム・フォン・フンボルトとコントの考え方がミルの自由論の根底にあったのである。
これをさらに押し進めたのがバーリンである。アイザイア・バーリンが用いた積極的自由、消極的自由という概念に従えば、ミルの『自由論』の議論の多くは消極的自由についてである。バーリンが提唱する消極的自由とは、障害、妨害、強制(抑圧)の欠如を意味する。また一方の積極的自由とは、行為できる(可能性的なものも含めた)能力、自由であるための必要条件 - 物質的資源、(ある人における)啓蒙の度合い、参政の機会など - の存在を指す。(注)
- (注)- ミルは参政権(=積極的自由)について述べているが、あくまで「だいたい」消極的自由についてと言うことであって、『自由論』全てが消極的自由の議論であるわけでは無い。ミルが後年自らを社会主義者と呼んだことを考慮してもらいたい。ミルが実際に社会主義者かどうかは今でも議論があるが、彼は自由放任主義資本主義を支持していたので、通常はそのように見なされない。実際のミルが自由を解釈して、後のチャーティスト運動が考えた自由、つまり他人を思いやる自由と考えたとすれば彼が社会主義者であったことが理解できる。最初ミルの自由論が不評であった理由は実はこの点にある。しかし現在のようにイデオロギーからの脱出が叫ばれている現在ではこのようなイデオロギー論争を抜きにして自由論は、自由意思論を超えた立派な社会的自由、経済的自由、政治的自由を含んだ広大な領域をカバーする世界史に残る自由論であったということができる。
この思想は明治時代においては「自由之理」として中村正直に翻訳され、大隈重信の立憲改進党の思想に大きく影響を与えた。
ミルは、他者に危害を加えない行為をするために、(個人の自由な行いを邪魔する)法などの障害を取り除くことができるのは政府の役目であると説いている。ミルは実際の自由の行使 - 例えば貧しい市民が生産的な仕事を得ること - を許す必要条件については議論を展開せず、それにはその後のチャーティスト運動に待たなくてはならなかった。
その後自由放任の終焉を書いた経済政策の ケインズなどに代表される20世紀の思想家の登場を待たなければならなかった。しかしニューデールを含め自由主義の運動には常にミルの自由論が大きく影響を与えたことは否めないといいうる。
また、ミルは『女性の隷属』(1861年)、『代議政治論』なども著わしている。実際の政治家(下院議員)としてのミルについては上段を参照せよ。
[編集] 論理学におけるミル
論理学の分野では、『論理学大系』(1843年)を著わしている。この中でミルは、実証主義的な社会科学方法論の確立をめざし、帰納法によって発見された経験法則を再度現象の予測に適用して法則の真理性を確認するという、オーギュスト・コントの歴史的方法を基にした逆演繹法を確立した。
[編集] 経済学におけるミル
リカード後の古典派経済学の代表的な経済学者であり、『経済学原理』(1848年)を著わす。この長大な著作は古典派経済学の代表的な教科書として、マーシャルの「経済学原理」の登場(1890年)まで君臨したと言える。ただし、厳密にはミルの著作のタイトルは政治経済学 political economy の教科書であり、マーシャルのそれは経済学 economics の教科書であることに注意すること。その後新古典派や、マルクスとその後継者たちによって、「過渡期の経済学」としてさまざまな批判にさらされたが、近年では再評価が進んでいる。
ミルの経済学は、おおまかに言えばリカード以来の古典派経済学モデルのフレームワークに従っている。19世紀の英国は、産業革命や植民地獲得競争の勝利で、急激に物質的な豊かさを獲得した。しかし、そうした史上空前の繁栄にもかかわらず、貧富の格差や植民地の増加などの社会変化の中で、古典派元来の自由放任政策は行き詰まりを見せていた。経済学者ミルの課題は、そうした当時の「豊かな先進国」イギリスの社会問題に対して、具体的で実現可能な処方箋を書くことにあった。(例えば、同時代のディケンズの描く貧困層のスケッチなどを見よ。)
基本的にミルは自由放任政策の支持者であったが、ロバート・オウエンなどのユートピア社会主義者の潮流の影響を受けて社会主義的な色合いを帯びており、マルクスとはしばしば対比される。『経済学原理』の版によってその社会主義への接近の度合いは変動し、最終版では社会主義に対してやや距離を置いている。これは、勃興する急進的な社会主義運動の実勢に、ミルが幻滅したためではないか、と考えられている。社会主義体制の持つであろう恣意的な分配、表現の自由の圧殺などの考えられる弱点について、手厳しく、かつ先見性に富む予言をしていることも注目すべきであろう。
ミルは、生産が自然の法則によって与えられる(農地からの収益を想起せよ。これに加えて、ミルは人口の影響を考慮していた。)のに対して分配は社会が人為的に変更可能であることに着目し、政府の再分配機能によって、漸進的な社会改革を行うことに期待している。その意味では「大きな政府」によるセーフティ・ネットの構築に、激化する階級対立の処方箋を見出した、と言える。長い時間はかかったが、おおよそ英国社会はマルクスの激越な革命の予言ではなく、ミルの書いた穏健な処方箋の方向へ徐々に進んだ、と言っても良いだろう。
後にフェビアン協会へと連なっていく英国の社会民主主義に、具体的な、正統派経済学からの理論的裏づけを与えた最初の経済学者の1人として評価することもできる。現代日本社会の未来像において、ミルの古典的な処方箋に再び経済学史のスポットライトが当たることがあるのかもしれない。なお、現代経済学の中では、アマルティア・センの平等主義的な経済学文献の中にも、しばしばミルの引用が見られる。
経済成長を自明のものとしなかったため、いわゆる「定常型社会」論の先駆と見なされることもある。また、当時の英国に深刻な不安を投げかけていたマルサス『人口論』以来の人口問題については、労働者階級の自発的な出生率の抑制による出生率の制御に期待する、という考え方(新マルサス主義)で臨んでいた。
[編集] 著書
- (1843年) 論理学体系 A System of Logic
- (1844年) Essays on Some Unsettled Questions of Political Economy
- (1848年) 経済学原理 Principles of Political Economy
- (1859年) 自由論 On Liberty
- (1861年) 功利主義 Utilitarianism
- (1861年) 代議政治論 Considerations on Representative Government
- (1869年) 女性の隷属 The Subjection of Women
- (1873年) 自伝 Autobiography
[編集] 参考文献
- Ball, T. & Dagger, R. (1991) Political Ideologies and the Democratic Ideal (New York: HarperCollins).
[編集] 関連項目
- 帰納
- ベーコン
- 自然の斉一性
- 一致法
- 差異法
- 一致差異併用法
- 剰余法
- 共変法
- オーギュスト・コント
[編集] 外部リンク
- Web上でのミルの著書、ミルに関する論文(英語)などがまとめられているサイト
- MetaLibri Digital Library:
この「ジョン・スチュアート・ミル」は、哲学に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正して下さる協力者を求めています。(ウィキポータル 哲学) |
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