ソ連共産党書記局
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ソ連共産党書記局(ソれんきょうさんとうしょききょく、正式名称:ソビエト連邦共産党中央委員会書記局、ロシア語:Секретариат ЦК КПСС)は、ソビエト連邦共産党の主要機関であり、は、ソビエト連邦共産党の主要機関であり、しばしば政治局により決定された政策の立案に対立する、党の中央運営に責任を持っていた。そのメンバーは共産党中央委員会により選ばれるものであったが、それが成立した最初の数年間は、決定は投票前に上位の指導者?(senior leadership)により行われるため、投票は形式的なものであった。ソビエト共産党書記長は、政治局の一員で、党および書記の長であった。書記局と政治局の両方に所属していることは、ソビエトの上位の指導者?(senior leadership)の2,3のポストとなることに運命付けられており、スターリン後の時代においては、最終的名権力への布石となった。ソビエトの最後の4人の指導者(レオニード・ブレジネフ、ユーリ・アンドロポフ、コンスタンティン・チェルネンコ、ミハイル・ゴルバチョフ )は、書記長になる前は全て上位書記?(senior Secretaries)になっていた。
書記局は1917年8月6日に中央委員会により組織された。これは、一番最初に全メンバーとして、フェリックス・ジェルジンスキー、マトヴェイ・ムラーノフ、ヤーコフ・スヴェルドロフにより、候補者としてアドリフ・ヨッフェ、エレーナ・スタソワから組織された。1917年の10月革命に続き、スヴェルドロフとStasovaは、他の業務を行う書記局のメンバーとして、事実上の書記局を組織した。その時、書記局は、地方の党組織の活動の調整や党の日常の管理任務を扱う様な技術的な問題にに責任を負っていた。
1922年までに、組織は技術的な委員会から党の最も重要な組織へと変貌を遂げ、その変貌により、共産党の日常の活動に責任を負う様になった。同じ1922年に、書記長の座が設けられ、書記長は、書記の長となり、レーニンの死後には、党と国にとって最も重要な人物となった。
ソ連共産党の機構を参照
[編集] 書記局構成員(1917年 - 1991年)
日付 | 事項 |
---|---|
1917年8月6日 | フェリックス・ジェルジンスキー、マトヴェイ・ムラーノフ、ヤーコフ・スヴェルドロフが書記に選出。アドリフ・ヨッフェ、エレーナ・スタソワが書記候補に選出。 |
1919年3月16日 | スヴェルドロフ死去 |
1919年3月25日 | スタソワが中央委員会により主任書記に選出 |
1919年11月 | ニコライ・クレスチンスキーが選出され、主任書記に。 |
1920年4月5日 | クレスチンスキー、エフゲニー・プレオブラジェンスキー、レオニード・セレブリャコフが選出 |
1921年3月16日 | V. ミハイロフ、ヴャチェスラフ・モロトフ、エメリヤン・ヤロスラフスキーが選出 |
1922年4月3日 | クイビシェフ、モロトフが選出。ヨシフ・スターリンが書記長として選出 |
1923年4月26日 | モロトフ、ヤン・ルズターク、スターリンが選出 |
1924年2月 | ルズタークがアンドレイ・アンドレーエフと交代 |
1924年6月2日 | アンドレーエフ、ゼレンスキー、ラーザリ・カガノーヴィチ、モロトフ、スターリンが選出 |
1924年8月 | ゼレンスキーがウグラーノフと交代 |
1925年4月30日 | カガノーヴィチがアンドレイ・ブブノフと交代 |
1926年1月1日 | エヴドキモフ、コシオール、モロトフ、スターリン、ウグラーノフが書記に選出。アルトゥヒナ、ブブノフが書記候補。 |
1926年4月9日 | エヴドキモフがシュヴェルニクと交代 |
1927年4月16日 | シュヴェルニクがクビャークと交代 |
1927年12月19日 | コシオール、クビャーク、モロトフ、スターリン、ウグラーノフが書記に選出。アルトゥヒナ、ブブノフ、モスクヴィンが書記候補に選出 |
1928年4月11日 | クビャークがスミルノフと交代。バウマンが書記候補に選出。 |
1928年7月12日 | コシオールがカガノーヴィチと交代 |
1929年4月30日 | ウグラーノフがバウマンと交代 |
1930年7月13日 | バウマン、カガノーヴィチ、モロトフ、ポストィシェフ、スターリンが書記に選出。モスクヴィン、シュヴェルニクが書記候補に選出。 |
1930年12月21日 | モロトフ解任 |
1932年10月2日 | バウマン、モスクヴィンを解任 |
1934年2月10日 | アンドレイ・ジダーノフ、カガノーヴィチ、セルゲイ・キーロフ、スターリンが書記に選出 |
1934年12月1日 | キーロフ暗殺 |
1935年2月 | ニコライ・エジョフ、アンドレーエフが書記に選出 |
1939年3月22日 | アンドレーエフ、ジダーノフ、ゲオルギー・マレンコフ、スターリンが書記に選出 |
1941年5月4日 | アレクサンドル・シチェルバコフが選出。 |
1945年5月10日 | シチェルバコフ死去 |
1946年3月18日 | ジダーノフ、クズネツォフ、マレンコフ、ポポフ、スターリン |
1946年5月6日 | マレンコフがパトリチェフと交代 |
1947年5月24日 | パトリチェフがミハイル・スースロフと交代 |
1948年7月1日 | マレンコフ、パンテレイモン・ポノマレンコが選出 |
1948年8月31日 | ジダーノフ死去 |
1949年1月28日 | クズネツォフ解任 |
1949年12月16日 | ポポフがニキータ・フルシチョフと交代 |
1952年10月16日 | アリストフ、レオニード・ブレジネフ、イグナトフ、マレンコフ、N.ミハイロフ、ペゴフ、ポノマレンコ、スターリン、スースロフ、フルシチョフが書記に選出。この頃には、もはや「書記長」の肩書きは使われなかったが、事実上スターリンが指導者のままであった。 |
1953年3月5日 | スターリン死去 |
1953年3月5日 | ブレジネフ、イグナトフ、ペゴフ、ポノマレンコが、イグナチョフ、ポスペロフ、シャターリンと交代。注: マレンコフは首相を兼務していたために、事実上の筆頭書記となった。 |
1953年3月14日 | マレンコフ解任 |
1953年3月14日 | イグナチョフ、ポスペロフ、スースロフ、フルシチョフ、シャターリンが選出 |
1953年4月5日 | イグナチョフ解任 |
1953年9月7日 | フルシチョフが中央委員会により第一書記に選出。 |
1955年3月8日 | シャターリン解任 |
1955年7月12日 | アリストフ、ベリャーエフ、ドミトリー・シェピーロフ join |
1956年2月27日 | アリストフ、ベリャーエフ、ブレジネフ、ポスペロフ、スースロフ、フルツェヴァ、フルシチョフ、シェピーロフが選出 |
1956年12月24日 | シェピーロフ解任 |
1957年2月14日 | シェピーロフが再選出 |
1957年6月18日 | 中央委員会幹部会がフルシチョフ第一書記の解任決議(賛成7票、反対4票)、but the decision is revoked on the same day and the issue is postponed until the June 1957 Central Committee Plenum which reaffirms フルシチョフ |
1957年6月29日 | シェピーロフがオットー・クーシネンと交代 |
1957年12月17日 | イグナトフ、キリチェンコ、ムヒトディノフが選出 |
1958年11月12日 | ベリャーエフ解任 |
1960年5月4日 | アリストフ、イグナトフ、キリチェンコ、ポスペロフ、フルツェヴァが解任; コズロフが選出 |
1960年7月16日 | ブレジネフ解任 |
1961年10月31日 | デミチェフ、イリーチェフ、コズロフ、クーシネン、ボリス・ポノマリョフ、スピリドノフ、スースロフ、フルシチョフ、シェレーピン |
1962年4月23日 | スピリドノフ解任 |
1962年11月23日 | アンドロポフ、ポリャーコフ、ルダーコフ、チートフが選出。 |
1963年6月21日 | ブレジネフ、ニコライ・ポドゴルヌイが選出 |
1964年5月17日 | クーシネン死去 |
1964年10月14日 | フルシチョフ解任。中央委員会総会でブレジネフが第一書記に選出。 |
1964年11月16日 | コズロフ、ポリャコフ解任 |
1965年3月26日 | イリーチェフがウスチノフと交代 |
1965年9月29日 | チートフがクラコフと交代 |
1965年12月6日 | ポドゴルヌイがカピトノフと交代 |
1966年4月8日 | アンドロポフ、ブレジネフ、デミチェフ、カピトノフ、キリレンコ、クラコフ、ポノマリョフ、ルダーコフ、スースロフ、ウスチノフ、シェレーピンが選出。; ブレジネフの肩書きが 第一書記 から 書記長 に変更 |
1966年7月10日 | ルダーコフ死去 |
1966年12月13日 | ソロメンツォフが選出 |
1967年6月21日 | アンドロポフ解任 |
1967年9月26日 | シェレーピン解任 |
1968年4月10日 | Katushev joins |
1971年4月9日 | ブレジネフ、デミチェフ、Kapitonov、Katushev、キリレンコ、クラコフ、ポノマリョフ、Solomentsev、スースロフ、ウスチノフ |
1971年11月23日 | Solomentsev removed |
1972年12月18日 | Dolgikh joins |
1974年12月16日 | デミチェフ relieved of duties at the Central Committee plenum |
1976年3月5日 | ブレジネフ、Dolgikh、Zimyanin、Kapitonov、Katushev、キリレンコ、クラコフ、ポノマリョフ、スースロフ、ウスチノフ、コンスタンチン・チェルネンコ elected secretaries at the Central Committee plenum; |
1976年10月 | ウスチノフ replaced by Ryabov |
1977年5月24日 | Katushev replaced by Rusakov |
1978年7月17日 | クラコフ死去 |
1978年11月27日 | ミハイル・ゴルバチョフ joins |
1979年4月17日 | Ryabov removed |
1981年3月3日 | ブレジネフ、ゴルバチョフ、Dolgikh、Zimyanin、Kapitonov、キリレンコ、ポノマリョフ、Rusakov、スースロフ、チェルネンコ |
1982年1月25日 | スースロフ死去 |
1982年5月24日 | ユーリー・アンドロポフ joins |
1982年11月10日 | ブレジネフ死去 |
1982年11月12日 | アンドロポフ elected General secretary at a Central Committee extraordinary plenum |
1982年11月22日 | キリレンコ replaced by ルイシコフ. |
1983年6月15日 | ロマノフ joins |
1983年12月26日 | リガチョフ joins |
1984年2月9日 | アンドロポフ死去 |
1984年2月13日 | チェルネンコ elected General secretary at a Central Committee extraordinary plenum |
1985年3月10日 | チェルネンコ死去 |
1985年3月11日 | ゴルバチョフ elected General secretary at a Central Committee extraordinary plenum |
1985年4月23日 | ニコノフ joins |
1985年7月1日 | ロマノフ replaced by ボリス・エリツィン and ザイコフ |
1985年10月15日 | ルイシコフ removed |
1986年2月18日 | エリツィン and Rusakov removed |
1986年3月6日 | Biryukova、ゴルバチョフ、アナトリー・ドブルイニン、Dolgikh、ザイコフ、Zimyanin、Likhachev、Medvedev、ニコノフ、Razumovsky、Alexander Yakovlev |
1987年1月28日 | Zimyanin replaced by ルキヤノフ and Slyunkov |
1988年2月18日 | Baklanov joins |
1988年9月30日 | Biryukova、ドブルイニン、Dolgikh and ルキヤノフ removed; チェビリコフ joins |
1989年9月20日 | ニコノフ and チェビリコフ removed; ギレンコ、Manayenkov、Stroyev and ウスマノフ join |
1989年12月9日 | Frolov joins |
1990年7月10日 | ゴルバチョフ re-elected General Secretary、イワシコ Deputy general secretary at the 28th party Congress by secret ballot |
1990年7月14日 | バクラーノフ、ギダスポフ、ギレンコ、ザソホフ、Kuptsov、Manayenkov、Semyonova、Stroyev、ファーリン、シェニン、ゲンナジー・ヤナーエフ、アニスキン、Gayvoronsky、メルニコフ、Teplenichev and Turgunova join |
1991年1月31日 | ヤナーエフ replaced by ルチンスキー |
1991年4月25日 | ゴルバチョフ tendered his resignation to the joint plenum of the Central Committee and the Central Control Commission、but it was declined; バクラーノフ removed |
1991年7月26日 | カラシニコフ、メルニコフ、マルツェフ join |
1991年8月24日 | ソ連8月クーデターの失敗の後、ゴルバチョフが書記長を辞任し、エリツィンがソ連共産党の活動を禁止。 |
カテゴリ: 翻訳中 | スタブ | ソビエト社会主義共和国連邦