デレック・ワーウィック
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F1での経歴 | |
国籍 | イギリス イングランド |
活動年数 | 1981 - 1990, 1993 |
所属チーム | トールマン, ルノー, ブラバム, アロウズ, ロータス, フットワーク |
出走回数 | 147 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 71 |
表彰台(3位以内)回数 | 4 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 2 |
F1デビュー戦 | 1981年サンマリノGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1993年オーストラリアGP |
デレック・スタンリー・アーサー・ワーウィック(Derek Stanley Arthur Warwick、1954年8月27日 - )はイギリスハンプシャー州アレスフォード出身の元レーシングドライバー。Warwick は正しくは「ウォリック」と読む。
目次 |
[編集] プロフィール
長くF1で活躍したが、勝利を挙げることはなかった。未勝利ドライバーの中では最高のドライバーの1人という評価もある。2006年には引退したF1ドライバーによるグランプリマスターズの最初のシーズンに参加する。
ドライバー経歴の初期において、彼は1978年のイギリスF3選手権でチャンピオンとなった。1981年にトールマンでF1デビュー。同チームでよい成績を収め、1984年に彼はルノーに移籍した。このとき、彼は勝利に必要なマシンを獲得したと思われたが、最初のレースで先頭を走りながらリタイア(原因は、ラウダがワーウィックを抜く際に必要以上の幅寄せによる接触・サスペンションダメージ)を喫した後、そのようなチャンスが再び訪れることはなかった。
1986年にはロータスへの移籍がほぼ確実視されながら、当時ロータスのNo.1ドライバーだったアイルトン・セナがワーウィックをチームメイトとすることを拒否したため(セナは自分とワーウィックの実力が拮抗しているため、チームが自分をエースとして盛り立ててくれなくなることを危惧したと言われている)、結局ロータスはセナのチームメイトにジョニー・ダンフリーズを選び、ワーウィックは浪人となる。その後彼は、ポールリカールでのテスト中に事故死したエリオ・デ・アンジェリスの代役としてブラバムに加入することになる。
1987年にはアロウズに移籍。以後1989年までアロウズに在籍した後、1990年には因縁のロータスに移籍する。しかしこの時点でロータスのチーム力は大幅に低下しており、ワーウィックは思うような活躍ができず、F1からの一時引退を宣言し、ロータスに三行半を突き付け、SWCへ転向する。
ワーウィックはスポーツカーレースにおいても、1986年から1991年まで彼はジャガーのスポーツカーを走らせていた。F1のシートを失ったワーウィックはスポーツカーレースに力を入れるようになり、1992年のスポーツカー世界選手権(SWC)を制し、またプジョーチームの一員として同年のル・マン24時間レースに勝利するなど、成功を収めた。
これがきっかけで1993年にはフットワークからF1に復帰するが、結局同年末にワーウィックはチームから放出され、F1からの引退を余儀なくされた。
F1引退後はイギリスツーリングカー選手権(BTCC)に出走し、1998年には一勝をマーク、さらに共同設立した888レーシングでヴォクスホールを走らせた。
得意なスポーツはボーリングで、夫婦そろって腕前は中々のものらしい。また握力が強く、握られた相手の手が痺れると言われているほか、トールマン在籍時にマシンの車高を調整する鋼鉄製のレバーをあっさりとへし折ってしまったという逸話もある。余談だが、滅多なことでは怒らない上、怒っても静かに怒る英国紳士を絵に描いたような性格である。
1990年イタリアGPでは、大クラッシュにあうが、彼は無事だった。しかし、すぐさまインタビューした川井一仁に、「グージェルミンのスリップストリームに入っていたんだけど…」と、何事もなかったかのように冷静に状況を話した後、スペアカーに乗り込みレースに復帰し、周囲を驚嘆させた。
古舘伊知郎から「F1界の二谷英明と言われるほど、風貌はそっくりである。
なお余談ではあるが、一度だけWRCにも参戦した事がある。(1990年RACラリーでマシンはプロドライブ製のグループAスバル・レガシィ、成績は13位まで順位を上げていたが3日目にリタイヤとなった。)
[編集] F1での成績
太字はポイントを獲得したレースを示す。
Yr | Team | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | Team |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | トールマン | USAW | BRA | ARG | SAN | BEL | MON | SPA | FRA | GBR | DEU | AUT | DUT | ITA | CAN | USA | トールマン | |
1982年 | トールマン | SAF | BRA | USAW | SAN | BEL | MON | USAE | CAN | DUT | GBR | FRA | DEU | AUT | SWI | ITA | USA | トールマン |
1983年 | トールマン | BRA | USAW | FRA | SAN | MON | BEL | USAE | CAN | GBR | DEU | AUT | DUT | ITA | EUR | SAF | トールマン | |
1984年 | ルノー | BRA | SAF | BEL | SAN | FRA | MON | CAN | USAE | USA | GBR | DEU | AUT | DUT | ITA | EUR | POR | ルノー |
1985年 | ルノー | BRA | POR | SAN | MON | CAN | USAE | FRA | GBR | DEU | AUT | DUT | ITA | BEL | EUR | SAF | AUS | ルノー |
1986年 | ブラバム | BRA | SPA | SAN | MON | BEL | CAN | USAE | FRA | GBR | DEU | HUN | AUT | ITA | POR | MEX | AUS | ブラバム |
1987年 | アロウズ | BRA | SAN | BEL | MON | USAE | FRA | GBR | DEU | HUN | AUT | ITA | POR | SPA | MEX | JPN | AUS | アロウズ |
1988年 | アロウズ | BRA | SAN | MON | MEX | CAN | USAE | FRA | GBR | DEU | HUN | BEL | ITA | POR | SPA | JPN | AUS | アロウズ |
1989年 | アロウズ | BRA | SAN | MON | MEX | USA | CAN | FRA | GBR | DEU | HUN | BEL | ITA | POR | SPA | JPN | AUS | アロウズ |
1990年 | ロータス | USA | BRA | SAN | MON | CAN | MEX | FRA | GBR | DEU | HUN | BEL | ITA | POR | SPA | JPN | AUS | ロータス |
1993年 | フットワーク | SAF | BRA | EUR | SAN | SPA | MON | CAN | FRA | GBR | DEU | HUN | BEL | ITA | POR | JPN | AUS | フットワーク |
[編集] カーナンバー(F1)
- 36(1981年第4~15戦)
- 35(1982年第1~6.9戦~1983年)
- 16(1984年~1985年第1~14.16戦)
- 8 (1986年第6~16戦)
- 17(1987年.1988年)
- 9 (1989年第1~6.8~16戦.1993年)
- 11(1990年)