ハレム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハレム(harem)とは、イスラム社会における女性の居室のことである。この名称はトルコ語からイスラム世界の外側の諸外国語に広まったもので、アラビア語ではハリーム(حريم harīm)と呼ばれている。
トルコ語のハレムは、アラビア語のハリーム、ないしはアラビア語ではもっぱら聖地を指す語であるハラム(حرم haram)の転訛である。ハリーム、ハラムとも原義は「禁じられた場所」という意味で、ハレムとは、男性はその場所にいる女性の夫・子や親族以外、立ち入りが禁じられていたことから生まれた名称である。日本語ではハーレムと表記されることが多いが、学術的にはトルコ語の発音に近い「ハレム」の表記が一般的である。
目次 |
[編集] ハレムの文化的背景
ハレムは、文化的にはイスラム教(イスラーム)の説く、性的倫理の逸脱を未然に保護するためには男女は節理ある隔離を行わなければならないとの思想を直接の背景としている。
聖典『クルアーン』(『コーラン』)には、『クルアーン』が下された当時、マディーナ(メディナ)にあった預言者ムハンマドの自宅で、預言者の家に頻繁に出入りする信徒たちと、預言者の家族の居室の間を厳密に区切り、両者のむやみな出入りや会話を戒めた規定がみられる。後世のムスリム(イスラム教徒)たちは、この預言者の家族に関する規定と、ムスリム女性たるものは貞節を固く守るべきとした『クルアーン』の教えを厳密に適用する立場から、家屋の中にハリームの領域、すなわち訪問者の立ち入りが禁じられた空間を置くようになった。この意味では、ハレムは外出時に着用されるヴェールなどと同じ発想に基づいている。
しかしながら、ハレムの習慣はイスラム特異の文化というわけではなく、古代の地中海世界において、富裕な階層が倫理的・文化的・経済的な理由において女性の居室を隔離した風習がそもそもの起源であると考えられる。このように必ずしも宗教的な理由に基づく習慣であるとは言い切れない点でも、ヴェールの風習と同じ経緯をたどっている。
従って、ハレムはイスラム社会における男女隔離の推奨に基づいているとはいえ、下層の人々や、農村社会、遊牧民など男女が屋内外で共働きすることが前提となっている社会階層では不合理であるため採用され得ず、こうした家庭ではハレムの制度は事実上存在しない。
ハレムの習慣は、やはりヴェールと同じように、ヨーロッパ社会の近代的な価値観の前では、イスラム教における一夫多妻の規定と結び付けられて、廃絶されるべき性的搾取、女性差別の象徴、イスラム世界の後進性の実例とみなされて指弾されてきた。イスラム社会の内部でも20世紀後半以降、女性の社会進出にともなって厳格な適用は好まれなくなり、多くの国々で衰退に向かっている。
[編集] 宮廷のハレム
ハレムを厳密に運用するには、多くの夫人を抱え女性を労働力とせずに家庭内に置いておくことが可能な経済力が前提であった。これは、裏返して言えば、イスラム世界で最も富裕な存在である王侯貴族の宮廷においてハレムが厳密かつ大規模に営まれていたということを意味する。確かに、イスラム帝国の首長であるカリフの権威が絶頂に達したアッバース朝においては、『千夜一夜物語』に半ば伝説化して語られたような非常に大規模なハレムが営まれていた。
『クルアーン』は預言者の妻たちが顔を見せてよいのは同性の女性たちと自分の家族、親族の男性を除くと、彼女らの所有する奴隷のみであると語っているため、ハレムでは奴隷身分の者が労働に召し使われることとなったが、カリフのような富裕な王侯貴族のもとでは、このような奴隷は去勢されて宦官とされていた。宦官が召し使われたという点では古代オリエントや中国の後宮と同じである。また、ハレムに住まう夫人たちの身辺には奴隷身分の侍女たちも置かれたが、イスラム法では女奴隷の生んだ子は父が認知すれば自由人として認められることができると定められていたため、彼女たち女奴隷はハレムの夫人たちの夫の子供を私生児ではなく嫡出子として産む可能性があった。従って、女奴隷とは側室候補でもあり、夫の子を産めば奴隷身分から解放され、一躍王侯貴族の夫人として尊敬される身になることも珍しくなかったことは、江戸城の大奥の侍女とも似ている。マムルーク朝の初代スルタンとなったシャジャルッドゥッルは奴隷身分から君主の子を生んで解放され、王の妃へと身分を上昇させた女性の典型的な例である。
[編集] オスマン帝国のハレム
アッバース朝の衰亡後、アラブ人にかわってイスラム世界屈指の大帝国を築いたオスマン帝国においてもハレムはきわめて大規模なものが存在した。オスマン帝国の君主は4代バヤズィト1世以来、キリスト教徒出身の女奴隷を母として生まれたものが多く、そもそも君主権が絶頂化して有力者との婚姻が不要となった15世紀以降には、ほとんど正規の結婚を行う君主はいなかった。オスマン帝国のハレムには美人として有名なカフカス出身の女性を中心とする多くの女奴隷が集められ、その数は最盛期には1000人を越えた。戦争捕虜や、貧困家庭からの売却によって奴隷身分となった女性たちはイスタンブールで購入されると君主の宮廷のひとつに配属され、黒人の宦官によって生活を監督されながら歌舞音曲のみならず、礼儀作法や料理、裁縫、さらにアラビア文字の読み書きから詩などの文学に至るまで様々な教養を身につけさせられた後、侍女として皇帝の住まうトプカプ宮殿のハレムに移された。ジャーリヤと呼ばれる彼女らの中から皇帝の「お手つき」になったものはイクバル(幸運な者)、ギョズデ(お目をかけられた者)と称され、私室を与えられて側室の格となる。やがて寵愛を高めたものはハセキ(寵姫)、カドゥン(夫人)などの尊称を与えられ、もっとも高い地位にある者はバシュ・カドゥン(主席夫人)の称号をもった。さらに後継者となりうる男子を産めばハセキ・スルタンと呼ばれるが、皇帝は原則として彼女らと法的な婚姻を結ぶことはなく、建前上は君主の奴隷身分のままであった。スレイマン1世の夫人ヒュッレム・スルタンは元キリスト教徒の奴隷から皇帝の正式な妻にまで取り立てられた稀有な例である。一方、皇帝の母になれなかった側室たちや、皇帝の子を産むこともなく失寵した側室たち、また「幸運」に恵まれず寵愛を受けられなかった侍女たちは、時には皇帝から重臣に下賜されることもあったが、多くの場合皇帝の死去とともにトプカプ宮殿外の「嘆きの家」という離宮に移され、年金を与えられて静かに余生を送る運命であった。また、征服王メフメト2世からの掟により、スルタンに即位した皇子以外の皇子達は、全て死刑にされる事になった。また、代が変わった場合、前皇帝の妊娠している側室たちは、生きたまま袋に詰められ、ボスフォラス海峡に沈められる事になった。このように、厳しく、その立場は不安定極まりなかったオスマン帝国のハレムの女性達の間で、権力闘争が激しくならざるを得なかった状況があった。しかし、ひとたび自身の生んだ息子が皇帝に即位することとなればヴァーリデ・スルタン(母后)と呼ばれてハレムの女主人として高い尊敬を払われる身分となる。16世紀後半から17世紀にかけてのオスマン帝国は、皇帝独裁が保たれ政治の中心が宮廷に置かれたままであったにもかかわらず幼弱な皇帝が相次いだため、ヌールバヌー・スルタン、キョセム・スルタンなど著名な母后たちが権勢を振るった(女人の天下)。18世紀からは西欧化の波がハレムに押し寄せ、1856年にトプカプ宮殿からドルマバフチェ宮殿に王宮が移されると余剰のジャーリヤは解放された。しかし、近代オスマン帝国の王宮であったドルマバフチェ宮殿やユルドゥズ宮殿にも小規模ながら女官と宦官の住むハレムは維持され、彼女らがトルコの社会から完全にいなくなったのは1920年代にオスマン帝国が滅亡した後のことである。
[編集] 外部のイメージの中のハレム
既に述べたようにハレムという語がトルコ語から西欧諸言語に取り入れられたことからわかるように、西欧人がハレムの存在を「発見」したのは、オスマン帝国においてであった。
オスマン帝国のハレムは、その規模と神秘性からヨーロッパからイスタンブールにやってきた多くの観察者たちの注意をひきつけた。ヨーロッパでは、特に宮廷のハレムに住まう女性たちは、「君主の居室」を意味するトルコ語ハス・オダルク(Has Odalık)から訛ってオダリスク(Odalisque)とも呼ばれてきた。ヨーロッパの人々は、オスマン帝国の社会にみられるハレム、オダリスクを東洋的で異質なものととらえ、またこれらにはヨーロッパ人の手になる旅行記や絵画を通じて官能的なイメージを与えられたが、こうしたハレムに対するイメージの生産と受容はエドワード・サイードの批判したいわゆるオリエンタリズムの一種ということができる。官能的なハレムのイメージはオスマン帝国の滅亡後も再生産と増幅が21世紀に至るまで繰り返されてきた。
こうした風潮は、欧米のフィルターを経てオリエントの世界に触れた日本においても例外ではない。「サルタンの君臨するハーレム」のイメージは、全く欧米から受容したイメージに基づいて日本でも再生産されてきた。この結果、現在では「ハーレム」の語はほとんど西アジアとは関係なく日本語に定着しており、男女関係、性風俗や、より軽いニュアンスでは女性ばかりが数多くいる中に少数の男性が存在するような状況を指す意味まで、様々に「ハーレム」という言葉が使われている。