ピート・ベスト
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ランドルフ・ピーター・ベスト (Randolph Peter Best,1941年11月24日 - )は、イギリスのミュージシャン。イギリスのリバプール出身の世界的なバンドであるビートルズの初代のドラマーで、1962年にレコード・デビューする直前まで在籍していた事で知られている。
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[編集] 略歴
インドのマドラスにて、軍人である父親のジョン・ベスト二世と母親のモナ・ベストの間に長男として生まれる。4歳の時に第二次世界大戦が終了。植民地支配が終焉に向かった為、ピートを含むベスト家はイギリスのリバプールに帰国した。11歳でリバプールの名門校であるカレジエイトに進学。
1957年、母親のモナが自宅の地下にコーヒー・バー「カスバ」を開店した。これがきっかけとなってピート・ベストはドラムスを始める。また、その開店記念のイベントとしてバンドの生演奏も行われたが、そのバンドのひとつがビートルズの前身であるクオリーメンで、既に在籍していたジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンとはこの時に知り合ったと伝えられている。
1960年8月、カレジエイトを卒業直後、ドイツのハンブルグ公演の為ドラマーを必要としていたビートルズに加入。1962年8月に解雇されるまで在籍。その直後、同じくリバプールの地元バンドのリー・カーティス・アンド・ザ・ディトゥアーズに加入。このバンドは後にリー・カーティス・アンド・ジ・オールスターズと改名し、デッカ・レコードでシングル・デビューしている。
1963年6月、ピート・ベスト自身がリーダーとなってオリジナル・オールスターズを結成。その後、ピート・ベスト・アンド・ジ・オールスターズと改名し、1964年4月、デッカ・レコードと契約。レコード会社の要請でピート・ベスト・フォーと改名。1965年、アメリカ公演旅行の直前にメンバーの一人が脱退したためピートベスト・コンボと改名している。
1967年ピート・ベスト・コンボ解散。同時にピート・ベストは芸能界から事実上引退し、一年間パン工場でアルバイトした後、市役所の職員に応募し合格。職業安定所で勤務した。
1988年ピート・ベスト・バンド結成。職業安定所民営化につき早期退職し、以降バンドに専念する。
[編集] 人柄
カレジエイト時代の成績は優秀で、ラグビー部では主将を務めている。また、整った風貌で女の子からの人気が高かった。ビートルズ在籍時も女の子に一番人気があったとされ、地元の音楽誌での扱いもメンバーの中で一番大きかった。頭脳明晰で温厚だが、ビートルズのメンバーで唯一マッシュルームカットを受け入れず、最後までリーゼントで通している事などから、やや協調性に欠ける性格ではないかと言われている。
[編集] 解雇劇
ビートルズの側に立った見解は以下の通りである。
ビートルズはデビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングまでこぎ着けたが、ピートはドラムの技量が伴っていなかったため、プロデューサーのジョージ・マーティンの決断により、メジャーデビューまでもう一歩のところでグループを解雇され、代わりにハンブルク公演で親交のあったロリー・ストーム・アンド・ザ・ハリケーンズのドラマーであったリンゴ・スターがドラムを担当することになった。ただし、それでも満足いかなかったため、リリースされたレコーディングではセッション・ドラマーのアンディ・ホワイトが叩いている。
ジョージ・マーティンを初め、ビートルズと利害のある関係者は、概ね上の見解を支持しているが、逆に当時の関係者でビートルズと利害関係の無い者は、この見解に異を唱えており、解雇劇はマネージメントに関するトラブルとバンド内の力関係が相互に作用して生じた、非常に複雑な一件であると主張している。具体的にはバンドのリーダーの座を得たいポール・マッカートニーと、当時、ある程度マネージメントを担当していたピート・ベストの母親の影響を排除したいブライアン・エプスタインの利害関係が一致したというもの。
両者の主張は平行線を辿っているが、「当時のビートルズのファンで楽器の実力を重要視する者はほとんどいなかった。まして人気のあるメンバーを解雇する理由にはなりえない」という意見には同意する者が多い。事実、この一件でメンバーは、ファンの女の子たちからひどく非難された事もあり、ジョージが殴打される事件も発生している。また、ピートの母親もこの一件では「事実に反する」と怒っていたと言われている。
サウンド面での影響も大きかったと言われており、デビュー前のビートルズを知る人たちからは、当時の良さが失われたとも語っている。確かに技量は無かったかもしれないが、バンドにグルーブ感を与えるという面では活躍していたという意見もある。また、当時を知る人の中には「ピートがいるライブを知らなければ、本当の意味でビートルズを知っている事にはならない」という人もいる。
後年、ポールはこのことについて「ピートにはひどいことをした。ほかにもやり方があったかもしれない」とコメントしている。ジョンとしてもあまり気が進まなかったようではあるが、当時はメジャーデビューする事を第一優先に考えていたため、反論できなかったようである。
[編集] 近年
ときおりビートルズのトリビュートバンドを結成し、日本でもライブを行っている。また、ピートが演奏した「ラヴ・ミー・ドゥ」の音源は『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』に収録された。
そして、晩年のジョージ・ハリスンと再会し、お互いにビートルズ時代を懐古し和気藹々に愉しく話し合ったという。ピート曰く「僕はジョンとポールのことはあまり好きじゃなかったが、ジョージは違う。彼はナイーブでナイスガイなんだ。彼は失意に陥った僕を密かに慰めてくれ、僕に元気を与えてくれたんだ。僕にとってジョージこそビートルズの真のメンバーだと思っていたんだよ」と述べている。またジョージも「僕はピートになにもしてやれなかった。そのことが申し訳なく、いつまでも引き摺っていた。長年の間に再びピートに逢って当時のことをいつか謝りたいと思っていたんだ」と述べている。
その後、ジョージが肺癌や脳腫瘍で亡くなり、ピートはジョージの訃報を聞いて涙を流して非常に悲しんだ。彼はジョージのために黙祷し「僕のビートルズ時代の親友が亡くなった……一人の親友が亡くなったのはとても悲しいことさ。さようならジョージ……今までありがとう。君のことはいつまでも忘れないよ。そして君のために僕も最後までミュージシャンとして全力でみんなのために演奏するよ」とコメントしていたという。
[編集] 外部リンク
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メンバー | ジョン・レノン - ポール・マッカートニー - ジョージ・ハリスン - リンゴ・スター |
前メンバー | ピート・ベスト - スチュアート・サトクリフ |
プロデューサー | ジョージ・マーティン - フィル・スペクター - ジェフ・リン |
関連人物 | ブライアン・エプスタイン - クラウス・フォアマン - ビリー・プレストン - オノ・ヨーコ - リンダ・マッカートニー - オリヴィア・トリニアード・アリアス - パティ・ボイド - モーリン・スターキー - バーバラ・バック |
スタジオ & レーベル | アビー・ロード・スタジオ - EMI - キャピトル・レコード - アップル・レコード |
関連項目 | ザ・ビートルズ日本公演 - ザ・ビートルズ・クラブ - ビートルズの作品 - ビートルズの曲名一覧 - ビートルマニア - ビートルズの解散問題 - リバプールサウンド - ルーフトップ・コンサート - アップル・コア - デッカ |