マーガレット・サッチャー
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在任期間: | 1979年 5月4日-1990年11月22日 |
前首相: | ジェームズ・キャラハン |
次首相: | ジョン・メージャー |
生年月日: | 1925年 10月13日 |
出身地: | イングランド, グランサム |
所属政党: | 保守党 |
マーガレット・ヒルダ・サッチャー(Baroness Margaret Hilda Thatcher, 1925年10月13日 - )は、イギリスの政治家。女性として初めて保守党党首および英国首相(在任 1979年 - 1990年)となった。保守的で強硬的な性格から、鉄の女(the Iron Lady)、アッティラ(Attila the Hun)などの異名をとる。旧姓はロバーツ(Roberts)。
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[編集] 経歴
[編集] 弁護士
1925年、食料雑貨商の娘として生まれる。父は地元の名士であり、市長をつとめたこともある。オックスフォード大学で化学を学んだ。研究者として就職した(研究者時代にアイスクリームに空気を混ぜてかさ増しする方法を研究した事がある)後、1950年に保守党から選挙に立候補するが、落選。翌51年に10歳年上のデニス・サッチャーと結婚し、法律を学びはじめる。1953年、弁護士資格を取得。
[編集] 政界進出
1959年には下院議員に当選を果たした。保守党に属し、1970年からはヒース内閣の教育科学相を務める。このとき教育関連予算を削減する必要に迫られ、学校における牛乳の無償配給を廃止し、抗議の嵐を巻き起こした。1974年の総選挙で保守党が敗北を喫したのち、翌75年2月の党首選でヒースを下し、保守党党首の座に就く。1976年には、ソ連とヘルシンキ合意に対する痛烈な批判を行う。これに対してソ連のラジオ局はサッチャーを鉄の女と呼び非難。皮肉なことにこの呼び名はサッチャー自身も気に入っており彼女の代名詞ともなった。
[編集] 首相就任
1979年の総選挙では、イギリス経済の復活と小さな政府の実現を公約として保守党を勝利に導き、女性として初めてイギリス首相に就任。そして、市場原理と起業家精神を重視し、政府の経済的介入を抑制する政策を取った。こうした政治姿勢は新自由主義(ネオリベラリズム)あるいは新保守主義と呼ばれ、理論的には、ハイエクやフリードマンの経済学を背景としている。
新自由主義の立場に基づき、サッチャーは、電話会社(1984年)やガス会社(1986年)、空港(1986年)、航空会社(1987年)などの各種国有企業の民営化や規制緩和、金融改革などを断行。また、改革の障害となっていた労働組合の影響力を取り除く政策を多く打ち出した。さらに、所得税は25%~80%の11段階から、25%と40%の2段階へ、法人税は50%から35%へ、それぞれ段階的に大きく引き下げられた。一方で、付加価値税(消費税)は、8%から15%まで大胆に引き上げられた(1979年)。
インフレーションを政府と協調して抑えるために、イングランド銀行が大幅な利上げを行ったため当初の公約であったインフレーションを抑えることに成功した。しかし当然の如く、首相在任1期目で失業者数は倍増し、1982年には300万人を数えるまでとなる。失業率はその後も1986年半ばまで減少に転じることはなかった。このためサッチャー政権の支持率は低下したため、小さな政府の柱の一つであった完全マネタリズムを放棄しリフレーション政策に転じた。その結果、イギリス経済は回復した。フリードマンらはサッチャーの変節を攻撃したが、総じてイギリス国民には受け入れられ総選挙で連勝を重ね、任期を延ばしていく。だが、人頭税(community charge)の導入を巡って国民的な反対運動が起こり、最後は辞職に追い込まれた。
ほぼ時を同じくして、1980年に選出されたアメリカ合衆国大統領のロナルド・レーガンも新自由主義的な政策を数多く打ち出した。さらに、カナダでも、1984年に選出されたマルルーニー首相は保守派であったため、80年代はアングロサクソン各国において新自由主義が支配する時代となる。また、この時期、日本においても、1982年に誕生した中曽根内閣によって、行政改革や国鉄分割民営化(1987年)などが行われた。
[編集] フォークランド戦争
この間1982年には、南大西洋のフォークランド諸島においてフォークランド戦争が勃発。アルゼンチン軍のフォークランド諸島への侵攻に対し、間髪をおかずに艦隊と爆撃機を派遣し、多数の艦艇を失ったものの2ヶ月の戦闘の結果アルゼンチンを放逐した。サッチャーの強硬策の一環と捉えられているが(実際にはフォークランド諸島に初めて人が上陸したのは1690年にイギリスの船員が最初であり、幾らかの他国との競り合いの後、1833年にイギリスが正式支配を行っていた。さらに同諸島の住民のほとんどはイギリス系であり、国際法、国連憲章に立脚する「民族自決の原則」からいってもイギリスの同諸島に対する領有権は強固な法的根拠を有している)、フォークランド諸島の奪還により、イギリス国内での評価は高い。この際に、「人命に換えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」(領土とは国家そのものであり、その国家なくしては国民の生命・財産の存在する根拠が失われるという意)」と発言した。
同年4月3日、国連は安全保障理事会決議第502号を採択し、アルゼンチンの撤退を要請している。
[編集] その評価
その非常に強硬な政治方針と信念から、在任中も、またその後も英国内では非常に毀誉褒貶の激しい二分された評価がある。財政赤字を克服しイギリス経済を立て直した救世主として新自由主義の経済論者、また保守主義者からは未だに高い評価を受ける一方で、中流・労働者階級の一般の国民からは、失業者を爆発的に増大させ、金持ち優遇政策を採った血も涙もない人間としての評価が多い。また、公的分野にも競争原理の導入・強化を促し医療・教育予算の抑制をはかった結果、医師の海外流出や公教育の荒廃を招いたため、医療従事者や公立学校の教師にも評価は低い。
彼女によってそれまでの「ゆりかごから墓場まで」とうたわれた社会保障制度が崩壊すると同時に、失業の増加と貧富の差の拡大により地域社会の崩壊が特に炭鉱などの重厚産業の地域に起こり格差社会を招いたとして、それまでの英国的な価値観が破壊されたということは事実である。こうしたサッチャリズムの負の側面は多くの文学作品や映画・音楽などでも未だに取り上げられ続けているテーマである。このため、いわゆるアーティストや知識人などのリベラルな人間の間ではサッチャー及びサッチャリズムのネガティブな作用についてはほぼ統一された見解がある。
一方こうした国内での痛みを伴うサッチャリズムの結果と無関係なイギリス国外では、新自由主義の旗頭として在任中も退任後も各国の保守勢力から高い評価を受け、退任後も日本やアメリカなどで精力的に講演活動をおこなっている。サッチャリズムの功罪の評価は未だに定まったとはいえないが、良きにつけ悪しきにつけ、現在に続くイギリス経済の基本路線を定めたことは確かであり、その後の労働党政権も彼女の施策を部分的に修正し取り入れた政策を行っている。
後に日本でおこなわれた「聖域なき構造改革」は彼女の改革を模倣したものと考えられている。
[編集] 授爵・叙勲
1992年、一代貴族として男爵位を授爵し、女男爵 (Baroness) として貴族院議員になる。1995年、ガーター勲章を受ける。
また、2007年2月21日、在世中の元首相では始めて、英国国会議事堂内に銅像が建立された。 なお、建立に際し、サッチャーは、「鉄の像(「鉄の女」にかけている。)になるかとおもったが、銅像ですね。・・・銅もいいですよね、錆びないから」と述べ、人々の笑いを誘った。
[編集] 家族
夫のデニス・サッチャーとの間に娘キャロル、息子マークの双子の子供がいる。デニス・サッチャーは、1991年に準男爵 (Baronet) になり、サーと呼ばれる。
2004年8月、マークは当時居住していた南アフリカ共和国で、「赤道ギニアのクーデターを企んでいた傭兵へ資金援助を行った」容疑で逮捕されたが、すぐに200万ランド(約4千万円)の保釈金により保釈され、イギリスへの帰国を認められた。2005年1月に南アフリカ政府と司法取引をし、「資金提供は認めるが、クーデターの意図は知らなかった」ということで、懲役4年(執行猶予付き)と300万ランド(約6千万円)の罰金を支払った。
[編集] 語録
- もし誰かに言ってほしい事があれば、男に頼みなさい。でもやってほしい事があるときは女に頼みなさい。
- お金持ちを貧乏にしても、貧乏な人はお金持ちになりません。
- "The poor will not become rich, even if The rich are made poor."
- あなたの旗は赤旗でしょう? わたしの旗はユニオンジャックです。
- 社会というものはない。あるのは個人と家庭だけだ。
- 私はコンセンサスというものは、さほど重要なものであるとは思いません。あれは時間の浪費の原因のようなものですから。
- (議会を動物擁護法案が通過する際、野次を飛ばす野党議員に対し)お黙りなさい! これはあなた方のためにもなる法律なんですからね!!
- この内閣に男は一人しかいないのですか!(フォークランド戦争開戦に反対する閣僚たちにむかって)
- われわれは核兵器の無い世界ではなく、戦争の無い世界を目指すべきです。
[編集] 関連項目
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