佐伯勇
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佐伯 勇(さえき いさむ、1903年(明治36年)3月25日~1989年(平成元年)10月5日)は昭和中期から平成期(1950年代~1980年代)の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の元社長、会長、名誉会長で、近鉄グループの総帥。プロ野球・近鉄バファローズのオーナーでもあった。世界で初めての2階建車両による特急車のビスタカーの生みの親でもある。
[編集] 来歴・人物
愛媛県周桑郡丹原町(現・西条市)で、佐伯源三郎の三男として生まれる。丹原小学校、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)と進むが、父親の方針で京都一中(現・京都府立洛北高等学校)へ転校、さらに三高を経て東京帝国大学法学部を卒業した。
1927年4月に近畿日本鉄道の前身、大阪電気軌道(大軌)に入社。この時、社長の金森又一郎は帝大卒という高学歴を見て、かつて同じような学歴で入社したがすぐ辞めてしまった者がいた事から入社を渋り、部下の説得で何とか納得する事が出来たといわれる。
駅員や運転士などの現業に就いたのち、本社庶務課に配属。秘書課長や総務部長を経て、1947年3月15日に上層部が公職追放で辞任したのを受けて、43歳で取締役になる。同年4月、専務取締役となり、参議院議員を兼任していた村上義一社長に代わって経営の前線に立った。1949年、プロ野球球団・近鉄パールスを設立し、パシフィック・リーグに参加、オーナーとなる。
1951年、7代目の社長に就任する。同社では初めて社員からの生え抜きでの起用となった。以後、近鉄を合併や路線延伸により私鉄最大手へと押し上げ、ビスタカーなどの新型車両の導入や、1959年に伊勢湾台風の復旧に合わせて行った名古屋線の改軌を初め、生駒・青山両トンネルの改良による輸送力増強、近鉄百貨店や近畿日本ツーリストなど近鉄グループの拡大などを進めていき、近鉄中興の祖と呼ばれるようになった。
社長を21年余り務め、1973年に会長に就任。以後もグループのトップとして経営を指揮し続け、1987年には代表取締役相談役名誉会長に。1989年10月5日、近鉄のリーグ優勝に先立つこと9日で、肝不全のため大阪大学医学部病院で死去。享年86。翌年1月、妻・千代子も後を追うようにして亡くなった。長男・幸男(故人)も、グループの都ホテル東京の常務などを務めた。
文楽や清元にも詳しく、文楽協会を1958年に設立、理事長を務めた。また、大阪商工会議所会頭を1971年から1981年まで10年間務めたほか、経団連副会長など、財界でも幅広く活動した。また大阪商工会議所5選を目指していた当時、長谷川周重が出馬、両者相打ちとなったことは大阪の財界をキタとミナミの真っ二つにした「第2次南北戦争」としてよく知られている。この他、日本航空、関西電力、朝日放送などの取締役、日野自動車監査役なども務めた。
奈良県奈良市登美ヶ丘にあった自宅は近鉄の出資する財団によって、1994年に上村松園、上村松篁、上村淳之3代の日本画家の作品を展示する松伯美術館となった。また、出身地の愛媛県西条市丹原町には佐伯記念館・郷土資料館が設けられ、遺品などが展示されている。1990年1月、野球殿堂特別表彰。
近鉄を私鉄の日本一に築き上げたが、野球は意のままにならず、西本幸雄監督を迎えて1979年、創立30年目にして初優勝を果たした。また1989年に近鉄は2位オリックスにわずか1厘差での優勝を果たしたが、佐伯が死去した日にはオリックスに3.5ゲーム差をつけられて自力優勝の可能性が消滅していた。当時の仰木彬監督は後日、「(近鉄が優勝したのは)佐伯オーナーが守ってくれたからだ」と述懐している。
[編集] 関連項目・人物
- 愛媛県出身の有名人一覧
- 生駒トンネル
- 新青山トンネル
- ビスタカー
- 藤田省三(近鉄球団創設時の監督)
- 芥田武夫
- 千葉茂
- 別当薫
- 岩本義行
- 小玉明利
- 三原脩
- 岩本尭
- 関口清治
- 岡本伊三美
- 井内彦四郎
- 種田虎雄(近鉄初代社長)
- 上山善紀(球団オーナー職の後任、死去時の会長。文楽協会の代表職も継いだ)
- 金森茂一郎(又一郎の孫)
- 田代和
- 辻井昭雄
- 山口昌紀(現在の近鉄社長。2007年6月から会長就任)
- 小林哲也(2007年6月から第15代社長。近鉄球団最後の球団社長)
[編集] 外部リンク
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