刀伊の入寇
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刀伊の入寇(といのにゅうこう)とは1019年に満洲(中国東北部)を中心に分布した女真族(満州民族)の一部が壱岐・対馬を襲い、更に筑前まで攻めてきた事件。刀伊の来寇ともいう。
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[編集] 経緯
刀伊とは、高麗が北方(東界・北界)の蛮族を指す時に使う名称であった。15世紀の訓民正音発布以降の、ハングルによって書かれた書物では되(そのまま「トイ」)として表れるが、当時とは国境が違うことを理解しておきたい。
刀伊は賊船約50隻の船団を組んで対馬・壱岐を襲撃し、壱岐守理忠を含む多くの島民を殺害・拉致した後、筑前国怡土の郡に襲来、4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を荒らしまわった。これに対し、大宰権帥藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。たまたま風波が厳しく、博多近辺で留まったために用意を整えた日本軍の狙い撃ちにあい、逃亡したと記されている。
被害は、記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという。また有名な対馬銀鉱も焼損した。
当初、日本側は何者が攻めてきたのか分からず、賊虜3人がみな高麗人であって、彼らは「高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てたが、以前に新羅の海賊が九州を襲ったこともあってか、太宰府や朝廷は半信半疑であった。結局、賊が高麗人でないと判明したのは、7月7日、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近(ながみねのもろちか)が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使の鄭子良が保護した日本人270人を送り届けてきてからである。高麗使は翌年2月、太宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったという。
「刀伊」の主流は恐らく満洲民族の前身である女真族であったと思われる。当時の女真は農耕の習慣を持っておらず、代わりに農耕民族を拉致して自己の勢力圏内で農耕に従事させて食糧を確保していたとも言われている。このため、入寇の目的としては単なる海賊行為の他にこうした農耕民族住民の確保があったとも言われている。
この非常事態を朝廷が知ったのは隆家らが刀伊を撃退し、事態が落着したあとであったが、防人や弩を復活して大規模に警護を固めた弘仁、貞観、寛平の韓寇のときにくらべ、ほとんど再発防止に努めた様子はうかがえない。その上、撃退した藤原隆家らに何ら恩賞を与えなかった。これは「平将門の乱(天慶の乱)」、「藤原純友の乱(承平の乱)」に続き朝廷の無能振りと武士の影響力の増長を示すこととなった(後に引退していた藤原道長の口添えによって恩賞が出されたともされている)。
隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行ったが、ここでも高麗の水軍に撃退された。このとき、拉致された日本人二百数十人が高麗水軍に保護され、日本に送還された[1]。また日本は宋との関係が良好になっていたため、外国の脅威をあまり感じなくなっていたようである。日本と契丹(遼)はのちのちまでほとんど交流がなく、密航者はきびしく罰せられた。
【注意】この事件に関しては「小右記」・「朝野群載」等が等が詳しく[2]、『高麗史』などにはほとんど記事がない。
[編集] 付言
なお、刀伊が本拠とした永興湾[3]付近は当時「東界」と呼ばれ、後に李氏朝鮮王朝をひらく全羅海賊の李氏らが入植し現地女真族を支配しつつあった。これについては高麗国も牒のなかで「女真はわがほうに朝貢を納めていた」と明記し、源俊賢が「それなら賊は高麗の属民ではないか」とすでに問題としている。古来渤海人らがすすんで北西九州にきた例はなく、刀伊の前後にこの海域を荒らしたのがほとんど高麗人であった点からも、刀伊の正体はこの李氏であるという見方もでている。
(※通説では李氏(全州李氏)の出身は全羅道全州であり、李成桂の高祖父の李安社の時に全州を出てモンゴル帝国勢力下の豆満江流域に定着、1255年に官位を取得。李安社の息子の李行里の時(1290年)に咸興に移住、定着したとされている。岡田英弘らは李氏は女真人であるとの説を唱えている。李成桂を参照)
賊の風俗は、「牛馬を切っては食い、また犬を屠殺してむさぼり食らう」と記録され、また「人を食う」との証言も見られる。斬り込み隊、盾を持った弓部隊らが10-20組も繰り出してあっというまに拉致・虐殺・放火・略奪をやってのけ、牛馬をぬすみ、切り殺して食うなどの蛮行をかさねてはつぎの場所へと逃げてゆく、という熟練ぶりであった。逃げるのにじゃまになった病人や児童は簀巻きにして平然と海に投げ入れた(詳細は参考文献にくわしい)。
討伐に活躍した藤原隆家は『枕草子』で知られる中関白家の生き残りで専門の武士と言うわけではない。九州の武士団は関東に比べ発展が遅れ、討伐に活躍したと記録に見える主な者をひろってみても、大蔵種材、光弘、藤原明範、助高、友近、致孝、平為賢(方)、為忠、財部弘近、弘延、紀重方、文屋恵(忠)光、多治久明、源知、僧常覚ら、現地人の寄せ集めに近い。中世の大豪族・菊地氏は隆家の子孫と伝えているが、石井進氏は在地官人の少弐藤原蔵規というひとがじつは先祖だったろう、との見解を示している。源知はのちの松浦党の先祖のひとりとみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡させる活躍をした。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 『鶏林拾葉』 塙保己一編 国史や公家の日記などから日鮮関係の資料を抜粋した部類記。
- 『小右記』 鎌倉以前のほとんどの古記録は東大史料編纂所のデータベースから読むことができる。
- 中央公論社『日本の歴史 5 王朝の貴族』土田直鎮 初版1965 ソフトカバーや文庫本にもなっており定番物ではあるが古く、高麗が朝鮮時代の国境とされているなど地図に関してはかなり難がある。