前田清長
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前田 清長(まえだ きよなが、延享2年(1745年) - 寛政元年2月29日(1789年3月25日))は、江戸幕府の高家旗本。高家肝煎役・前田出羽守房長の長男。生母は青木縫殿頭直宥の女・紋。幼名は政太郎、通称式部。官位は従五位下侍従・隠岐守。高家・前田家三代の当主。
宝暦9年(1759年)5月15日、15歳の時に将軍徳川家重に御目見し、表高家に列した。安永2年(1774年)4月8日父房長の隠居により、家督を相続した。安永5年(1777年)7月4日高家役となり、従五位下侍従・隠岐守に叙任した。京都御使、日光、久能山、三州瀧山御宮の御名代を務めた。寛政元年(1789年)2月29日死去、45歳。市ヶ谷・自證院に葬。法号・瑞華院感空遒應大居士。
正妻は牧野豊前守惟成の妹・岑。後妻は大森兵部少輔邦頼の女・信。後妻は遠藤下野守胤忠の養妹・鉄。長男珍長、三男松平図書頭康英、七男長皓(実兄珍長の養子)ら七男二女あり。なお、三男の松平康英(やすふさ)は文化5年(1808年)、長崎奉行勤役中にフェートン号事件で責任を取り、切腹した。
[編集] 参考文献
- 「前田家先祖書」
- 「前田家系譜」
- 『新訂寛政重修諸家譜』