吹田事件
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吹田事件(すいたじけん)とは、昭和27年(1952年)6月24日から6月25日にかけて、大阪府吹田市一帯で発生した公安事件。
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[編集] 事件の発端
1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した。当初戦況は北朝鮮が優位であったが、仁川上陸作戦で戦局が一変、逆に韓国優位となり、韓国軍の一部は鴨緑江に到達したが、中国人民志願軍によって38度線に押し戻され、一進一退の膠着状態が続いていた。
北朝鮮系の在日朝鮮人は、北朝鮮軍を支援すべく、日本各地で反米・反戦暴動を起こしていた。当時、武装闘争路線を掲げていた日本共産党は、こうした在日朝鮮人の動きに便乗。暴動は次第に大規模なものへとエスカレートしていく。
[編集] 事件の概要
1952年6月24日夜、大阪府豊中市にある大阪大学豊中キャンパスで「朝鮮戦争勃発二周年記念前夜祭」が開催され、約800人が集まった。前夜祭終了後、米軍用貨物列車の輸送基地となっている国鉄吹田操車場を襲撃することになり、「山越部隊」と「電車部隊」に分かれて行動した。
「山越部隊」は、西国街道経由で、三島郡豊川村(現・箕面市)に進出し、「ファシスト打倒」と称して笹川良一宅を襲撃、門や窓ガラスを破壊した後、更に南下した。
一方「電車部隊」は、阪急宝塚本線石橋駅に到着し、駅長に臨時列車の発車を強要した。駅長はやむなく運賃徴収の上、臨時列車を発車させることになった。服部駅で全員が下車し、旧伊丹街道の裏道経由で6月25日午前5時頃、「山越部隊」との合流を果たした。
合流後、須佐之男命神社前で吹田市警察や国家地方警察の警備線を突破し、国鉄東海道本線岸辺駅経由で吹田操車場に侵入した。しかし、肝心の軍用列車が発見できなかったので、一旦外に出て吹田市の中心部へ向かった。
その途中、カーター・W・クラーク陸軍准将の乗用車に遭遇し、硫酸瓶や棍棒を投げつけた。クラーク准将は急発進してこの場を離れたものの、顔に全治2週間の傷を負った。また、茨木市警察の車に火炎瓶を投げ入れて27人の警察官に火傷や打撲傷を負わせた。その後も道路沿いにある駐在所や派出所を次々と襲撃した。
暴徒は遂に吹田駅に到着、同駅発の列車に乗り込もうとし、警察と衝突した。暴徒は火炎瓶を投げたり、警察官から奪った拳銃を発砲するなどしたため、一般の乗客は吹田駅構内を逃げ惑うなど大混乱に陥った。
[編集] その後の顛末
大阪地方検察庁は、この事件に騒乱罪を適用することにし、合計111人を起訴した。裁判の結果、騒乱罪の成立は認めず、15人についてのみ傷害罪等で有罪となった。事件の参加者の多くは事件勃発当時に武装闘争路線を敷いていた日本共産党の指導の下にあったが、その後路線を変更した日本共産党は、こうした暴動参加者を切り捨て、見殺しにしていった。
[編集] 参考文献
- 『吹田・枚方事件について』(横幕胤行、富久公、船越信勝 1954年)
- 『大阪府警察史 第3巻』(大阪府警察史編集委員会編 1973年)
- 『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』(李瑜煥 1980年)
- 『大阪で闘った朝鮮戦争 吹田枚方事件の青春群像』(西村秀樹 2004年)